市民記者コーナーの「掛川にも“忍びの里”はあった!」
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掛川にも“忍びの里”はあった!
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2013年03月04日 11:35
もう半世紀以上も昔のことです。

私が家の西隣に「甲賀さん」そしてまた隣には「服部さん」というお宅があり、「忍者に関係あるのかな~?」という疑問を小学生のころ、ずっと抱き続けていました。
というのも遊びに行くと、土蔵の中には槍、刀そして鎖鎌のようなものまで置いてあったことを記憶しています。
さらに、この家のおじいさんが長い筒の吹き矢を使って、的に命中させる技を見せてくれたことがありました。
ですから私たちは子供心に、「この辺りは忍者の隠れ里ではないか?」と思っていたくらいです。


しかし私も成長するに連れ、落ち延びた忍びがわざわざ「甲賀姓」や「服部姓」を名乗るはずがないだろうと思うようになり、その話題は私たちの記憶から忘れ去られていました。

そしてつい最近、現在のご当主である甲賀Kさんとお話をする機会があったので、質問してみました。
要は忍びでないとすると、あのような武器を持っているお宅はどんな家柄だったのかという疑問です。
そのあと自宅に伺い、由来を説明して頂きました。

元歴元年(1184年)木曽義仲(源義仲)が近江の国で戦死、義仲の家来だった「富部太郎清久(兄)」と「富部太郎清永(弟)」は落ち武者となり、関東に戻る途中でこの地「中原郷(なかはらごう)」に住むことを決意した。
世をはばかるため兄の清久は「甲賀長太夫」を、弟の清永は「田宮九郎左衛門」を名乗った。
やがて「中原郷」は富部太郎兄弟の名前にちなみ「富部郷」と呼ぶようになった。
兄弟の守護神である「鹿島神宮」を富部地内(蔵屋敷)に祀り、弟方の田宮家が代々祭祀を司っていた。
その後「鹿島神宮」は富部の氏神様「八王子神社」に合祀された。


これで武器の意味も理解できました。
伊賀の里の住民も平氏の落ち武者の集団で、自衛手段として忍びの業を身に着けたのと同様、甲賀氏の武器もそのためだったことが窺がい知れました。
現在では家の改築等で土蔵も壊され、当時私たちが見た錆び付いた武器類は鉄くずとして処分されてしまったようです。

戦国時代には富部にも城「富部城」があったようですが、それよりずっと昔の話です。
結果的に、こちら甲賀家は三重県や滋賀県の忍者に比べても、はるか長い歴史のあるお宅だったことが分かり、改めて感心させられた次第です。

ちなみに「富部郷」は江戸期から明治22年にかけて「富部村」、その後「垂木村」~「桜木村」~「北小笠村」を経て、現掛川市の字名(大字)になっています。
そして「桜木」という地名は昭和7年「垂木村」と「雨桜村」が合併して双方から一文字を取って名付けられたという事です。

こちらの写真は本来の甲賀家があった場所、「元屋敷」と呼ばれ現在では畑になっています。
私の子供のころは井戸も残っていました。


10m以上の高台にあったので、甲賀家の屋号は現在でも「山(やま)」と呼ばれています。

書き込み数は13件です。
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Re: 掛川にも“忍びの里”はあった!
【返信元】 掛川にも“忍びの里”はあった!
2014年06月11日 19:55
ゲストさん

もしかしたらすぐ近くにお住いの方かも知れませんね!
このように昔の方(すでに私も)の話を聞いてみると、私たちの住んでいる地域はかなり古い歴史があります。
ゲストさんのように「我が家の歴史再発見」が続々公表されるといいですね!

機会があれば家系図を拝見したいです。

他にもこんな話が有りましたのでご紹介しています。
http://e-jan.kakegawa-net.jp/modules/topic/topic_vi…=&l=20
Re: 掛川にも“忍びの里”はあった!
【返信元】 掛川にも“忍びの里”はあった!
2014年06月09日 22:24
自分は田宮九郎左衛門の子孫の孫です! このサイトをみて、もしかしたら…と思って今日いろいろ調べてみたら家系図がでてきました
お墓に行ってしらべてみましたがやはり田宮九郎左衛門の文字が石碑に刻まれてました。
Re: 掛川にも“忍びの里”はあった!
【返信元】 掛川にも“忍びの里”はあった!
2014年04月11日 07:40
ゲストさん

コメントありがとうございます。
ゲストさんはおそらく私が知っている方かも知れませんね?

懐かしい話です。
Re: 掛川にも“忍びの里”はあった!
【返信元】 掛川にも“忍びの里”はあった!
2014年04月10日 16:35
私は幼い頃、この家で育ちました。
子供の頃、お蔵から火縄銃が見つかり
たいへん驚きました。
Re: 掛川にも“忍びの里”はあった!
【返信元】 掛川にも“忍びの里”はあった!
2013年07月09日 20:18
私の地区には、堀内姓が多いです。
ある部落には、15軒の内9軒が「堀内」です。
桜木には「山崎」・「山﨑」姓が多いですが、
サキの字が違う家が、半数ずついるようです。
Re: 掛川にも“忍びの里”はあった!
【返信元】 掛川にも“忍びの里”はあった!
2013年07月08日 22:46
錬誠館さん

田宮さん、甲賀さんは確かに多いですね!
家代南の山田さんも多いですが、もっと極端なのが各和の「萩田さん」です。
萩田さんは各和城のどなたかの奥方の名前だとか、以前聞いた記憶があります。
苗字は新政府になってから右に倣えで付けられたこともありますので、全て家系がつながっているとは限りません。
家紋の方がまだ信頼できそうです。
Re: 掛川にも“忍びの里”はあった!
【返信元】 掛川にも“忍びの里”はあった!
2013年03月16日 15:41
だから富部には「田宮さん」と「甲賀さん」ばっかりなんですね!

家代南16件中で「山田さん」は5件。私の家と両隣り、北西、北東すべて山田さん(笑)
Re: 掛川にも“忍びの里”はあった!
【返信元】 掛川にも“忍びの里”はあった!
2013年03月15日 20:47
ちょっとさん

忍者に興味があって聞いてみたのですが、それよりずっと古い歴史のあるお宅だった事に驚きました。
掛川には他にも興味深い歴史が潜んでいる可能性がありますよ!
Re: 掛川にも“忍びの里”はあった!
【返信元】 掛川にも“忍びの里”はあった!
2013年03月09日 07:33
T-dutchさん
他に私の近辺の地名として「和田岡」がありますが、こちらは「各和村」「高田村」「吉岡村」が合併し、それらの一文字を取って「和田岡村」になったようです。
和田岡村は桜木村と合併して「北小笠村」となり、そのあと掛川市に併合されました。
ちなみに我が母校の「桜ヶ丘中学校」は、桜木村の“桜”、和田岡村の“岡”を生かした名前にしたと聞いています。
「桜ヶ丘」、当時としてはおしゃれなネーミングでした、先人に感謝しています!
Re: 掛川にも“忍びの里”はあった!
【返信元】 掛川にも“忍びの里”はあった!
2013年03月08日 09:17
興味ある話ありがとうございました。歴史とは面白いものだと思います。
Re: 掛川にも“忍びの里”はあった!
【返信元】 掛川にも“忍びの里”はあった!
2013年03月07日 14:05
窓口のマドンナさん

他にも興味深い地名がたくさんありますが、また調べてみます。
マドンナさんの近くの「ねんねん」や「鰯原」なんて地名も何か興味を持ってしまいます。
Re: 掛川にも“忍びの里”はあった!
【返信元】 掛川にも“忍びの里”はあった!
2013年03月05日 09:35
「富部」の地名はそんな由来があったのですか。
実りの多い豊かな土地なので「富がうまれる部分」といったような意味では
ないかと何となく思っていましたが、全然合ってないですね。

「垂木村」+「雨桜村」=「桜木村」とは知りませんでした。
「雨垂村」の可能性もあったのでしょうか?
地名の由来はおもしろいものですね。
Re: 掛川にも“忍びの里”はあった!
【返信元】 掛川にも“忍びの里”はあった!
2013年03月04日 21:24
ありがとうございました。

大変興味深く読ませていただきました。

そうだったんだ・・・。