日本語は、事実のみを述べるように出来ている。実況放送、現状報告の内容ばかりの発言をしている人は、当人が対岸の火事を見ているようなもので、本人の直接行動を期待することはできない。意思のあるところに方法があるといわれているが、意思の無いところには、方法もない。それで、無為無策といったところか。日本の政治はその表れである。意思は未来構文の内容で、日本語には、その未来構文が無い。だから、日本人は未来のことを組織的に考えることが難しく、この国には何でもそろっているにもかかわらず、ただ夢・希望だけが無い。未来社会の内容を
私の祖母は明治10年の生まれであったから、江戸時代の生活をした人ではなかった。だが、当時の年寄りから話を聞いていて、封建時代のことをいろいろと話してくれた。家の前の道は往還といって、殿様が通った道であったということである。殿様が通るときは、あらかじめ道に浜砂をまいてきれいにしておくのだそうである。殿様の行列は、「下におれ、下におれ」と掛け声を掛けて通り、民は土下座して行列を見ることもなく通り過ぎるのを待っていたそうである。今の世の中では、「下におれ、下におれ」は、誰にでも通用する言葉ではない。人の上に立つため
日本を覆う閉塞感は、事実と構想を分離できないわが国民の考え方に起因している。過去の体験を過去構文の内容として語る一方、自分の考えを現在構文の内容として表現するとか、現在の内容を現在構文の内容として語る一方、「あるべき姿」としての自分の考えを未来構文の内容ととして表現すれば、自分の考えと現実は分離できる。時制のある英語を使うと、この操作が可能になる。だが、時制のない日本語では、こうした考えの操作は難しい。現実の内容と考えの内容とは殆ど一致しないにもかかわらず、考えと現実の内容を同次元の構文で述べたら
目の前のことは、大切である。目の前を良く見て車の運転をしなければ、交通事故は避けられない。だが、当面のことばかりに気を取られていては、ナウな感じのするその日暮らしの生活は避けられない。我が国には何でもあるが、ただ希望だけがない。この国を覆う閉塞感の暗雲を取り除く必要がある。人生には、遠い未来のことを考える時間も必要である。そして、未来の内容を考えるには、未来構文が必要である。日本語には時制がないので、いうなれば、現実構文ばかりの言語である。だから、日本語は、ナウな感じのするその日暮らしの生活の
私の高校時代の社会学の教科書には、「物言えば、唇寒し秋の風」という俳句を引用して、我が国の封建時代の言論の自由のなさを説明していた。西洋のように異端者を火あぶりの刑に処したことはないが、我が国の為政者は住民を十字架にかけて殺した。歴史的なことばかりでなく、今日でも、誰も知らぬ間に何者かに頚動脈をかき切られて暗殺されたり、ライフル銃で頭に風穴を開けられて殺されることは、何処の国でもありうることであろう。同じ宗教に属していても所属する会派が違えば、お互いに殺し合いをしなければならない国もある。私の妻は、「そのよう
日本語には、時制がない。日本語には、未来構文がない。日本語は、いうなれば現実構文ばかりの言語である。未来構文なくして未来に関する確かなことを語ることはできない。英文の未来時制の内容を日本語に訳すと、「、、、、だろう。」ばかりの文章になる。未来構文の内容なくして未来構想は成り立たない。未来構想なくして、未来社会の建設は成り立たない。我が国の選挙民に確実な未来社会の建設を約束する信念の政治家は現れない。民は希望があれば、それに対して金を出す。我々の社会には希望そのものがない。だから、金
構想がなくては、建設するものなど何もない。構想なくして、国家建設も世界建設もありえない。我が国の ’UNDER CONSTRUCTION’ は、何処もかしこも「建設中」ではなくて「工事中」なのであろう。工事は、モグラ叩きの方法による一時しのぎ問題解決法である。意見も建設的な意見ではなくて、工事的なものとなっている。活動規模の矮小さは、経済活性化の起爆剤にもつながらない。不安は、空白の未来に関する感情である。この国には何でもあるが、ただ希望だけがない。不安を解消しようとする安心実現内閣も工事的な内閣なのであろう。建設には構想があり完成が
日本人の「世の中は、、、、、、」の発想法は、遠く万葉の時代から続いている。世の中とは、現実の世界のことである。その内容は、実況放送・現状報告のようなものである。日本人にとって現実が世界の全てである。その他は、夢と幻である。これらは、実体のない空理空論というか、いわゆる雑念である。現実に関する発言内容には個人差がない。それで、日本人の発言は没個性となる。没個性の人間の個人差として取り上げられるものは、暗記と受け売りの能力差である。これが日本では実力として通用する。大人も子供も、現実という同次元の話に