8月27日の今日から静岡空港の2500メートル滑走路での完全運用が始まるとのこと、まことにおめでたいことであります。
成田空港のように片肺運用の空港にとどまらずにすみました。
今回の完全運用の成功は、我ら県民の叡智の賜物と言うより外ありません。
日本人には、世界観というものがない。国の「あるべき姿」の内容が存在しない。
だから、各人の世界観比べも成り立たず、議論が出来ない。
議論の末にできる合意も得られないので、協力も得られないことが多い。
我々は、自分自身の考え方をもう一度点検してみる必要がある。
W. S. チャーチルは、<第二次世界大戦> の中の <3-2-11 日本> で以下のごとく述べている。
戦争においても政策においても、常に自分を、ビスマルクが「他の人」と呼んだ者の立場において見るようにせねばならぬ。一省の長官がこのことを十分に、同情的にやれればやれるほど、それだけ正しい進路を発見する機会が多い。相手の観点がよくわかればわかるほど、どうしてよいかに迷うことは少ない。だが、深い十分の知識を伴わない想像は罠のようなものなので、わが英国の専門家中に日本人の心がどうゆうものであるかを正しくいえるものはきわめて稀であった。実際、日本人の心というものは透見すべからざるものなのである。長い時の隔たりをもつ日本の旧社会と新社会とは交錯して、外国人には諒解できない具合に互いに作用し合っていた。否、日本人自身が自分の心を知っていたかどうか、また決定を下さねばならぬ時に自身に内在するどういう力が主となるであろうかを知っていたかどうかが疑わしい。( 引用終り)
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
意思は未来時制の内容である。
日本語には時制はなく、日本人には意思がない。
意思の内容がなければ意思疎通が図れない。「お前らに、おれの腹の底が読めてたまるか」といったものが、日本人の基本姿勢である。
それで、以心伝心で行く。勝手な解釈もする。空気の研究も必要となる。
日本人の言語の自由度は、言葉の出来ない子供・アニマルに近くなる。
意思のあるところに方法はある。(Where there’s a will, there’s a way.) 意思がなくては、無為無策でいるしかない。
そこで、閉塞感に襲われる。座して死を待つより外にない。諦観がある。
日本人の考えの内容は現在 (うつつ; 現)に関する事柄のみある。過去 (幻) と未来 (夢) は、雑念となり辻褄を合わせることが出来ない。
こうした事情から、雑念を払って目先・手先の事柄に神経を集中する。この技は日本人の修行のうちに入っている。
パチンコも、こうした特技を生かした我が国の国技のようなものかもしれない。
うつつに限られた内容には閉塞感がある。希望は未来の内容である。
英語で考えることが、この問題を解決する。遠い未来を語るには、未来時制が必要である。
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