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2013年07月09日(火) 

日本人の発言には、建設的な態度が見られない。
それは、頭の中に建設されるべき未来社会が存在しないからである。
何もなければ、無事息災。天下泰平の世の中である。ということである。

我々は何処から来たか、何者であるか、どこに行くのか、を考えるのが、英米人の癖である。
英語には時制がある。こうした考えは、英文法の過去時制・現在時制・未来時制に対応している。
日本語には、時制がない。だから、日本語は、実況放送・現状報告の言語となっている。

昔からその内容は、「世の中は、、、、、」と言い表されている。
鎌倉の右大臣の歌のごとく「世の中は、常にもがもな、、、」(いつまでも、この様であってほしい、、、)と考える癖がある。
日本語を使うと、現在時制の内容は考えられても、過去や未来時制の内容は考えられない。
過去の内容は迅速に風化し、未来は一寸先が闇に見える。

英米人は、未来社会の内容を考えて、その現実対応策を提案してくる。建設的な提案である。
日本人にしてみれば、意図的な変化は用心しなければならない。日本人には、意思がないからである。
建設的な提案は眠りを覚ます上喜撰 (蒸気船) のようなものである。たった四杯で夜も眠れず。
無哲学・能天気の国民にとっては、実に煩わしいものである。

意思のあるところに問題の解決方法はある。(Where there’s a will, there’s a way).
意思のないところに解決方法はない。

日本人は、議会運営に難渋して、意思決定に暇がかかる。
意思は未来時制の内容であるが、日本語には未来時制はない。
日本人には意思がないが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。
恣意には筋がないからである。
論旨がなければ、議論はできない。

意思は公表できるが、恣意は公表できない。
意思は議会になじむが、恣意はなじまない。だが、談合にはなじむ。
談合してお互いの恣意を容認し合うことで懸案の決着を図る。
これは、伝統的なナアナア主義か。民主主義にならない。

日本語には時制がない。
無いものを考えることは難しい。
だから、「我々は何処から来たか、何者であるか、どこに行くのか、」の命題は、いつも素通りをする。

日本人の考え方は「世の中は、、、、」の形式である。
英語でいえば、現在時制の内容である。
日本語では、過去時制・未来時制は、文章にならない。
未来は夢、過去は幻となる。その内容は、文章がないので、辻褄を合わせることがむずかしい。いわゆる雑念である。
雑念を振り払って、眼前の事柄に注意力を集中する努力が、日本人の精神修養になっている。

日本人は、効果的な政治ができない。
政治は、未来を規定する。
日本語に未来時制はなく、日本人は未来のことは語らない。
現在時制の文章で未来の内容を語れば、それは真っ赤なウソになる。鬼も笑い出す。
「そんなことを言ってもだめだぞ、現実はそうはなっていない」と反発をかう。
現実と非現実 (未来) が一緒になり、日本人には、未来構想が語れない。
消去法のみを駆使して自己の世界を展開するが、自分自身に筋がなくては、自己主張も不可能である。
これが三流政治の原因になっている。

所詮、この世は仮の世。
真っ当な世の中は、この世の外 (頭の中) にある。
理想と縁を切って励む日常生活は空しい。


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閲覧数982 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2013/07/09 08:27
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