日本人には、強い希望があっても、それを意思に表すことが出来ない。
意思は未来時制の文章内容で、日本語には未来時制がない。
言語的に、無理がある。だから、日本人は希望を捨てるしかない。諦観である。
意思がなくては、積極的な行動はできない。常に受け身の姿勢では、被害者意識にさいなまれる。
意思があれば、加害者意識 (罪の意識) も出てくる。だから、自分自身の行動を改めることも可能になる。
罪を知らない子供の状態では、自己の行動を改めることは難しい。
無哲学・能天気の民に議論はできない。理由はない。ただ、’不敬罪’だの ‘非国民’ などと言いつつ、反抗する下々を黙らせて恣意のままに操る。子供じみた社会。
山本七平は、自著 <ある以上体験者の偏見> の中で、反省の押し売りに関する疑問を、下の段落のように述べています。
、、、、、私が常に不思議に思うことは、戦前の「恥を知れ、反省しろ」であれ、新井宝雄氏の「反省が見られない」であれ、本多勝一氏の「恥としなければならない」であれ、軍隊の「キサマラ、反省がタリン」であれ、「恥を知れ、処決せよ」であれ、たえずこの言葉を口にするこの人たち自身が「自らを律しそれを基準にして生きている主義」は、一体全体、何という主義だったのだろうかという疑問である。(引用終り)
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