この間、美山に出かけた時に茅葺屋根の修理をしておりました。
そこは20代の男性二人でした。
でも萱をしたくするのも大変だと思いました。
ふと、何年か後に久野さんや大森さんたちのように語り合えるほどに
頑張ってもらいたいものと思いました。
この年まで頑張れるのはすごいですね。
お互いに阿吽の呼吸で励ましあっていたのかもしれませんね。
まーちゃさんのがんばりもすごいですよ。
茨城新聞 2012年6月13日付 朝刊 【久野さん、大森さん最後の仕事】 笠間市のかやぶき職人、久野市雄さん(86)と大森元司さん(84)が、最後の仕事として手掛けた、笠間焼窯元のかやぶき屋根の補修作業を1ヵ月余りかけて終え引退した。共に60年以上にわたり、かやぶきに取り組んできた。10メートル近いはしごに軽々と登り、傷んだかやを丁寧に直した2人は、自らをねぎらうように「よくこの年までやってこられた」と声をそろえた。2人とも後継者はおらず、同市内のかやぶき職人は、ほぼ姿を消す。 久野さんは同市箱田で生まれ育ち、18歳から地元の親方の下で修業を積んだ。「当時は、かやぶき職人だけで地元の周りに150人近くいた。かやぶきの家も多かった」と話す。 同市飯田の大森さんは、21歳の時からかやぶき職人だった父の仕事を手伝い始めた。「親が職人だったので、自然な流れでこの道に入ったのかな」と振り返る。 2人は25年ほど前、同市下市毛の笠間日動美術館分館「春風萬里荘」のかやぶき母屋の修理を任され、初めて仕事を共にした。かやぶき職人は、通常5~6人が協力して作業を行うが、かやぶき民家が少なくなり、職人も年々減少。市内の仕事先も限られる中、2人は自然な形で、ペアを組むようになった。 最後の仕事となったのは、同市箱田の笠間焼窯元、久野陶園のかやぶき屋根の補修。江戸時代中期から続く笠間最古の窯元の母屋は、約330平方メートルで築約400年を誇る。東日本大震災でかやが部分的にはがれ、ビニールシートで雨漏りをしのぐ状態が続いていた。 2人は同園の久野恵美子さん(76)から、補修を依頼された。15年ほど前、母屋を直した縁もあったが、「自分たちも年だし、ここまで大きい屋根は時間も材料もかかる」(久野さん)と一度は断った。 しかし、身内で協力してかやの材料を集めるなど、久野さんの粘り強い要請を受けた2人は「これを最後の仕事にしよう」との思いで、作業することになった。 作業は4月24日から始まり、2人は午前8時から午後5時まで黙々と手を動かした。補修やふき直しが必要な箇所へ丁寧にかやを埋める。雨、雷を少しでも感じると、「おっかなくて仕事になんね」(大森さん)と潔くその日は終了。2人だけのペースで、最後の仕事にいそしんだ。 今月初旬、修復が終わった。作業のために組んだ木の足場を崩し、久野さんはあらためて実感した。「最後まで、この時が一番ほっとする瞬間だった。仕上がったかやぶき屋根を見ると、幸せになるね」。大森さんは「こうやって、最後に久野さんと一緒に仕事ができてよかった」と感慨を込めた。 古くから「茅手(かやで)」と呼ばれてきたかやぶき職人。「野菜でも作ってのんびり過ごそうかな」(久野さん)「中国とか、行きたい国がたくさんある」(大森さん)。2人の茅手は若々しく笑った。 (松本隆吾) 〈読者投稿〉 86歳と84歳で60年以上にわたり一つの仕事を続けたことがお見事だなと思いました。 私の場合は、一つの仕事を長くつづけたことがないためなかなかまねできるものではありません。かやぶき職人は、久野さんと大森さんの後がいないので、いなくなってしまうのがとても残念なことです。昔ながらの光景が、時代のせいかどんどんなくなるのは寂しいです。かやぶき職人の存在も、この記事を見て知りました。 大森さんの「最後に久野さんと一緒にできた」というところは薄れていく“絆”というのを感じ、心が温かくなり、おたがいに信頼しあって支え合ってきた姿が目に浮かびました。 坂場和美さん 32歳 茨城県 × × 誤字脱字写し間違いあります。 |