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2014年01月24日(金) 

日本語には階称がある。階称とは ‘言葉づかい’ のことである。階称は人間序列を作る。序列制度は我が国の国体である。先の大戦では、国体護持を案じて我が国の降伏が遅れた。

日本語には時制がない。時制は過去・現在・未来と世界を三つに分ける。時制のある言語では同じ内容の三通りの文章ができる。
時制がなければ世界は現在一つである。時制のない言語では一通りの文章しかできない。
時制のあるなしでは、考えの深さが違ってくる。浅はかな考えの人と思慮深い考えの人との分岐点になっている。

非現実の文章は、過去時制と未来時制の文章である。日本人は無哲学・能天気である。それは、非現実の文章を作らないからである。
非現実の内容は現実離れがしているので信じることが難しい。非現実の文章を作る人は超人的な人か。白人崇拝のもとにもなる。
世界が一つだと愚直になる。’今ある姿’ を述べると、’あるべき姿’ が脳裏から消える。その逆もまた真である。
言霊現象の錯覚にとらわれる。思い込みが強ければ、負け戦も勝ち戦に見えてくる。強く念じた内容以外はすべて想定外になる。ゆゆしい事態に突入する。

歴史を歴史として考えることができない例を、イザヤ・ベンダサンは自著 <日本教について> の中で以下のように説明しています。
たとえば「ロッド空港事件」の岡本公三が属していた赤軍派です。彼らの主なメンバーは、銃砲店でライフル銃を強奪して、ある有名な別荘地の山荘に立てこもったのですが、その理由は毛沢東が「銃口から政権が生まれる」と言ったので、その通りに実行したと言われております。これは彼らに「なるほど、歴史のある時期には、『銃口から政権が生まれる』といえる時代もあったのだ」と感じる感覚が全く欠如していることを示しています。そこでこの言葉を正しいとすることは、すぐさま銃をもって山荘にこもることに直結してしまうわけです。(引用終り)

非現実の世界があれば、’今ある姿’ と ‘あるべき姿’ を脳裡で並立させることができる。
哲学ができる。高等教育機関で哲学博士 (Doctor of Philosophy: Ph. D.) が育つ。
日本人の面接試験は、知識の量を量るか、四方山話をするか、歌詠みをするかになる。どれをとってみても論理には繋がらない。いずれにしても、知的な人間を選び出すことにはならない。日本人は考えに深さがないから面接により人物を選考することは難しい。人間にとらえどころがない。

わが国では、兵卒は優秀・愚直で、参謀は愚鈍。
指導者は世俗の序列制度の上に胡坐をかいている。愚鈍により引き起こされる災難は浪花節として語られることになる。耐えがたきを耐え、忍びがたきをしのんで、、、、、ということになる。この壁は打開されない。
脳裏には未来時制の文章による内容の展開がない。言の葉に脈絡はない。綺麗ごとばかり。一寸先は闇。
日本人の「あるべき姿」の話には筋がないのだから、単なる思い付き、言いがかりのようなものだ。矛盾に突き当たって、いたるところで挫折する。だから、指導者には哲学が必要である。

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閲覧数2,977 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/01/24 02:42
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