>靖国参拝は「不戦の決意」、「軍国主義の復活」などではない-中曽根氏ら日米議連が米国の理解醸成
神社は武士が戦勝を祈願するところであって、不戦の決意などをするところではない。このことは、わが国の遺族が一番よく知っているはずだ。
ところが、‘戦死して上とみられた。神となった。’ という遺族の切なる願望が、首相に靖国参拝と「不戦の決意」をさせることになった。敗戦により、命を国に捧げて ‘神となるはずの人間’ が、軍国主義の名のもとに’下と見られた’では遺族の心が治まらない。戦死者の追悼はどこの国でもやっていることであるが、「不戦の決意」などやっていない。国のために戦うのは’神になることだ’ という励ましが下々の日本人には通じやすい。世俗の上下感で政治家は力を得ている。国防への励ましは、理念に基づくのではなく、序列メンタリティの信仰に基づいていた。階称 (言葉づかい) のある日本語思考では無理もないことかもしれない。だが、核心は政治ではなく、宗教である。この問題は宗教会議では決着できない。議会で政治的に決着すべきである。政治家は、国家と結びついた宗教から手を引く必要がある。難しくてもやり通せ。米国の理解醸成は難しい。
カレル・ヴァン・ウォルフレンは、<日本/権力構造の謎・上>の中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。
“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。
ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)
わが国民の意識改革の主なところはどこか。考え方の ’そのままでよい’ を ‘どこに行くか’ に変えなければならない。’安定の気分’ を ‘改革の機運’ に変えなくてはならない。
これは、日本人の脳裏を無時制から有時制に変えることに相当する。英語を話す国民にとっては、これは言語能力の発達であって、珍しいことではない。彼らは大人になれば自然にそうなる。高等教育を受ければさらに考え方は鋭くなる。
無哲学・能天気の国民にとって、この発達は得体のしれない事実である。太平の世に蒸気船が出現した。追い払うことは難しい。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/