■バックナンバー
■RSSフィード
RSS 1.0 RSS 2.0 Atom 1.0
■このブログのURL
https://e-jan.kakegawa-net.jp/blog/blog.php?key=706949
2014年02月26日(水) 

日本人とドイツ人は文化が違う。日本人は恥の文化の中に住み、ドイツ人は罪の文化の中に住む。日本人は、民族の誇りを取り戻すことにはこだわる。序列思考に関する名誉回復にはこだわる。だが、罪に関することにはこだわらない。すべては事の成り行きと考えている。

日本人も韓国人も中国人も、意思がない。頼まれ仕事 (依頼された仕事) をしているのである。だから責任感はない。死刑執行人と同じで、人は死んでも彼らは殺人罪には問われない。彼らに殺意はないからである。中国人と韓国人は、科学はできなくても、科学技術を手に入れて、利用して金儲けをしている。彼らは、日本人をドイツ人と比較しながら非難する。ドイツ文化を利用して日本文化を非難する。利用できるものは何でも利用するのである。もちろん彼ら自身は、西洋文化を理解しているわけではないが、西洋文化の理解者のような態度をとる。パクリのできるものは利用するのである。

特亜三国の言語には時制がない。意思は未来時制の文章内容である。時制がなければ意思もない。意思があれば加害者意識 (罪の意識) もある。意思がなければ罪の意識もない。罪があれば、罰もある。罪もなければ罰もない。恨めしや。怨念には復讐である。怨念はアジアの不安定要因になっている。意見の相違があるにもかかわらず対話のない状態が続く。小異を捨てて大同につくのが良い。あるべき姿・大同は未来の姿である。未来時制がなければ、未来の内容の展開もない。提案もない。建設的なことは何もない。大同がなければ小異を捨てる理由はない。小異の争いに出口はない。我が国の平和国家の名が泣いている。罪の意識があれば、日本人もドイツ人のように贖罪に努めていたかもしれない。もっと言葉の勉強をしよう。言葉がなければ信頼もない。

従軍慰安婦問題や中国人労働者の「戦時強制連行」の問題は、法と正義の取りこぼしなのでしょうか。歴史学者の研究分野なのでしょうね。
米MIT (大学) の教授・ジョン・ダワーは以下のように述べています。

、、、、、よしんばこれ [東京裁判] が「代表的」指導者に戦争責任について説明責任を問うための発見学習的あるいはショウケース的裁判であると了解したとしても、ある種の集団、ある種の犯罪がそこから見逃されていることはいかにも顕著である。ひとびとにおそれられた憲兵隊は誰も起訴されなかった。超国家主義秘密結社の指導者も、侵略によって私腹を肥やし、「戦争への道」を拓くことに親しく関与してきた実業家も、起訴されていなかった。日本が植民地統治していた朝鮮人と台湾人を強制動員したことは「人道に対する罪」として追及されなかったし、何万人もの外国人の若い女性たちを狩りあつめて帝国軍人に性的サービスを提供する「慰安婦」として働かせたことも訴追されなかった。また、検察団を支配していたアメリカ自身が、残虐非道さにおいて疑問の余地のない罪を犯した特定の日本人集団を、秘密裏に、そっくり免責していた。満州の七三一部隊で、何千人という捕虜を実験台に使って生物兵器を開発していた将校や科学者たちである (研究成果をアメリカに教えることを交換条件に訴追を免れた)。中国における化学兵器使用の証拠についても、検察は真剣には追求しなかった。* (引用終り)

   *増補版・敗北を抱きしめて 下 第二次大戦後の日本人 ジョン・ダワー 岩波書店 2004 p.261

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/





閲覧数924 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/02/26 20:12
公開範囲外部公開
コメント(0)
  • 次項有コメントを送信
    閉じる
    名前 E-Mail
    URL:
■プロフィール
シンちゃんさん
[一言]
明るい未来社会を築こう
■この日はどんな日
ほかの[ 02月26日 ]のブログは、
■最近のファイル
■最近のコメント
■最近の書き込み