もう桜が散った地域もあれば、まだこれからの地方もある。日本人は咲きはじめにも散りぎわにも花の美を感じる。満開は目で見て楽しむもの、散りぎわは心で見て少しばかり無常の思いに浸るものか。 「えー、花見と申しましても見る人によっていろいろでして、お坊さんなんぞは『おうおう、見事に咲いたものじゃが、明日(あす)ありと思う心のあだ桜、夜半(よわ)にあらしの吹かぬものかは。南無阿弥陀仏』ってんで湿っぽくなりますな」 花見の噺(はなし)のマクラに落語家はこんなことを言う。これには続きがある。 「お侍は乱暴です。『見事に咲き終わったな。それがしも一句ひねったぞ。あの山は風邪をひいたか花(鼻水)だらけ』。風流になりませんな」 花見の人出を当てにして一商売しようじゃないか。二人の男が案を練る。とかく花見酒は不足がちなものだ。買い足したくても花見の名所の近くに酒屋はなく、茶店で飲めば高くつく。どうだ、現地に酒樽(さかだる)を担ぎ込んで売るというのは。一杯十銭なら売れると思うな。 アイデアはよいが資金はない。懇意な酒屋に酒を借りる。売り上げから決済し、二日目、三日目と扱う量を増やそう。初日は手堅く三升樽。ここまではよい考えだった。 ツリ銭用の十銭も酒屋に借りた。樽を棒に吊るして二人で担いで行く。樽が揺れ、酒の香りが後棒(あとぼう)の鼻をくすぐる。「飲みたくなっちゃた」「だめだよ、商売物だ」「十銭で俺が買って飲めばいいだろ」「そりゃ誰に売っても同じだ」。後棒はさっき借りた十銭を先棒(さきぼう)に払ってキュッと一杯。 先棒も飲みたくなった。今の十銭を後棒に払ってグビリと一杯。もう一杯いこうか、いや駆けつけ三杯だと、同じ十銭が二人の間を往復して樽はカラッポ。ああ、いい気持ちになった、いい商売だなあ!! これが古典落語中の古典落語「花見酒」だ。あえなく散ったマネーゲイムの一席。 経済大国を誇った時代に、ある識者が日本は「花見酒経済」だと警鐘を鳴らしたのはこの噺を踏まえてのことだったが、多くの人は好景気の浮かれた気分を普通の意味の花見酒にたとえたとしか思わなかったようだ。 やがて夜半にあらしが吹いたのか、バブルが崩壊した。景気の散りぎわには風情も風流もない。上に立つ方々に落語の素養があったなら――。 (京須偕充 きょうす・ともみつ=落語評論家) × × 2014.4.11の中日新聞です 写し間違いあります。 |