第三章 守る意識 二遊間の信頼関係 守備は一人では完成しない。ショートの場合、セカンドとどれだけ連携がとれるかが重要となる。 プロに入って驚かされたのは、土橋勝征さんの練習量だった。 すでにセカンドのレギュラーだったにもかかわらず、全体練習の前には誰よりも早く室内練習場に向かっていた。口数が多い方ではなかったのだが、黙々と練習する背中を見て「レギュラーの土橋さんがこれだけやるんだから、自分はもっとやらなければレギュラーは獲れない」と思わされたものだ。 土橋さんは私よりも二歳年上だったが、私の感性を尊重してくれていた部分が大きかった。入団二年目の1996年から二遊間を組むことが多かったのだが、次第にお互いの苦手な部分をカバーし合う関係ができあがっていった。 視力が弱く、眼鏡をかけていた土橋さんの場合はフライが得意ではなかった。上空を見上げたときに、眼鏡の縁にボールがかかるのが嫌だったのだろう。最初に「できるだけフライは獲りに行ってくれ」と言われ、二人の間では暗黙の了解としてフライが上がった場合は私が捕りに行くことになっていた。 これぞプロ野球と感じたのは、ゲッツーでの捕球位置だった。普通は、ショートが捕球して二塁ベースに入ったセカンドへ投げる際には、顔や胸に投げるのが基本だ。肩に近い高さのほうが一塁に早く投げられるためだ。 だが、土橋さんの場合は腰の位置だった。 「腰が一番早く一塁に投げられるから、腰を目がけて投げてくれ」 土橋さんの場合は上から投げるよりも、下から投げたほうが速く、コントロールもしやすいということだった。アマチュア時代から多くのセカンドと二遊間を組んできたが、そんなことを言うのは土橋さんが初めてだった。守備練習の時から、「ここだ」というようの腰の位置にグラブを構える。無言の会話のなかで連携ができあがっていった。 1998年に日本ハムからトレードで移籍してきた城石憲之は、最も厳しく接した選手の一人だった。移籍してきた当初は気の抜けたプレーをすることもあったが、それでは試合に出られないと気づいたのだろう。次第に周囲の情報を試合に生かせるようになっていった。城石にはショートの私が投げミスをして無理な体勢で捕球しても、それをカバーできるだけの肩の強さと、捕球してからの速さがあった。信頼できるセカンドの一人だった。 城石とは不思議な縁を感じている。彼は1995年にドラフト5位で日本ハムにはいったのだが、どうも私のドラフトが影響していたようだ。 当初、ヤクルトは私を3位で指名する予定だったのだが、前述したように野村監督の意向で2位に順位が上がった。当時、実は日本ハムが3位で私を指名するという話があり、ヤクルトが2位で指名していなければ、ウエーバーの順番で日本ハムに入団していた可能性が高いのである。日本ハムは私を指名できなかったため、青山学院を中退後、ガソリンスタンドでアルバイトをしていた城石を指名したようなのである。その城石がトレードでヤクルトに移籍してきたのだから、不思議な縁としかいいようがない。 彼に対しては本当に厳しく接した。セカンドゴロのゲッツーで城石からの送球が逸れた時には、「お前、ここに投げたらゲッツーが取れないだろう。もっとここに投げろ」と試合中でも声をかけた。 キャンプでの守備練習中に送球が逸れた時には、あからさまに不機嫌な態度をとったこともあった。彼の場合は「次、見ていろよ」と思ってついてくる精神的な強さがあった。2009年に引退した城石から「宮本さんのおかげでここまで続けることができました」と言われた時は本当にうれしかった。 × × 誤字脱字写し間違いあります。 |