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2014年11月27日(木) 

今回最後の目的地、お城としては「千賀地城」(ちがちじょう)でした。
朝からずっとお城巡りでしたが、最後は伊賀の忍者の城です。


(こちらは観音正寺-観音寺城手前の寺)

私なりの調査では有名な服部半蔵正成のお父さん「服部半蔵保長=初代服部半蔵」が築城したと伝えられています。
一般的に知名度が高いのは2代目の「服部半蔵正成」ですが、三河生まれだと言われています。
ところがこの「千賀地城」で生まれたという説もあり、その石碑があります。


(甲賀との境界線を下った所に見える伊賀上野城)

「千賀地城」は伊賀市与野にあるという事で、まずは予てからお世話になっている伊賀市の観光に携わっている方のお宅に伺いました。
しかし「千賀地城」の存在を知っている方は地元でも殆どいないという事でした。

地図でおよその場所を教えて頂いたのですが、おそらく探すのにはかなり時間が掛ると言われてしまいました。
こちらの山城探訪は次回のお楽しみとします。

もう一つ最後のお寺として予定していた「徳永寺」(伊賀市柘植)に立ち寄りました。
この寺の名前の由来は、徳川家が永遠に続くことを願って名付けられたらしいです。


(徳永寺)

天正10年、信長が本能寺の変で自刃後に徳川家康一行は伊賀忍者たちの先導で伊賀越えをして三河に帰還しました。
その途中で「茶を一服」した寺がこちらでした。
そこで寺の紋を「葵」にすることを許されたそうです。


(現在の本多家の立ち葵)

その当時の松平家の家紋はこちら「立ち葵」でした。
それが関ヶ原の戦い以降に「三つ葉葵」に代わったと伺いました。


(現在の徳川家の三つ葉葵)

ちなみにそれまで「三つ葉葵」は本多家の家紋だったのが、その時点で「強制交換」されてしまったそうです。
徳永寺にはそれを示す瓦が保存されていました。

もう1つの寺は「西念寺」、東京四谷にある服部半蔵の菩提寺と同名です。
この寺には伊賀忍者(上忍)御三家のひとつ「藤林家」の藤林保武の墓があります。



藤林保武は江戸時代に「万川集海」(忍者のスキル集)を作成し、失業した忍者たちのリクルートをしたと言われています。



閲覧数368 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/11/27 23:21
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