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2015年02月18日(水) 
福沢諭吉の <学問のすすめ> には、次のような事が書いてある。

学問をするには分限を知ること肝要なり。人の天然生れ附は、繋がれず縛られず、一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者なれども、ただ自由自由とのみ唱えて分限を知らざれば我儘放蕩に陥ること多し。即ちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずして我一身の自由を達することなり。自由と我儘の界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。譬えば自分の金銀を費やしてなすことなれば、仮令い酒色に耽り放蕩を尽すも自由自在なるべきに似たれども、決して然らず、一人の放蕩は諸人の手本となり遂に世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなすがゆえに、その費やすところの金銀はその人のものたりともその罪許すべからず。また自由独立のことは、人の一身に在るのみならず一国の上にもあることなり。(引用終り)

世界観がなければ、眞の自由は得られない。'自由' と '自由の履き違え' は区別できないからである。だから、身分だの、分限だのという言葉で人々の言動に枠をはめようとする。'武士とは何ぞや。農民とは何ぞや。商人とは何ぞや。職人とは何ぞや。' となる。発想は気分・雰囲気にも繋がっている。自分さえよければの考えになりやすい。そうしなければ、自分と他人の我儘放蕩同士がぶつかり合って、この世は不自由極まりないものになる。だから、この形式の発想は維持が難しい。

我々は、'どのような世界に住みたいか' を考える必要がある。世界の選択には自由がある。
言語に時制があれば、世界観の展開は可能になる。
過去の世界は、過去時制と過去完了時制で過不足なく表現できる。
現在の世界は、現在時制と現在完了時制で過不足なく表現できる。
未来の世界は、未来時制と未来完了時制で過不足なく表現できる。
これらの世界を自由な発想に基づいて語れば、相手は共感を示す場合もあれば、無視する場合もある。その判断には、分限も身分も関係しない。だから、我々は自由になれる。同志を得て、未来社会の建設に力を合わせることができる。内容は、グローバルにも、ユニバーサルも繋がっている。希望のある生活ができる。

日本語には、時制が無い。だから、脳裏に世界観を展開できない。そこで、'不自由を常と思えば不足なし' となる。
時制のある英語を習得して、英米人と自由に話ができるようにしよう。
現在の日本人は世界観を持っていない。無哲学・能天気の輩である。
知識ばかりを吸収して、頭デッカチとなっている。受験勉強の成果か。
相手の主張に対しては、'ああでもなければ、こうでもない' と力説し対抗する。
自分は、どうであるかを、説明しようとはしない。つかみどころのない人間である
この種の人間とは、実りある議論はできないのである。ここが重要なところである。
こうした人間を選別し、一定の距離を置くことも、むだに時間を費やさないために、必要なことである。この選別の習慣が身につけば、英米人と高尚な話もできる。

山本七平は、自著 <ある以上体験者の偏見> の中で、反省の押し売りに関する疑問を、下の段落のように述べています。
、、、、、私が常に不思議に思うことは、戦前の「恥を知れ、反省しろ」であれ、新井宝雄氏の「反省が見られない」であれ、本多勝一氏の「恥としなければならない」であれ、軍隊の「キサマラ、反省がタリン」であれ、「恥を知れ、処決せよ」であれ、たえずこの言葉を口にするこの人たち自身が「自らを律しそれを基準にして生きている主義」は、一体全体、何という主義だったのだろうかという疑問である。(引用終り)





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閲覧数522 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2015/02/18 10:47
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