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2016年02月11日(木) 

   私は息が苦しくなるので長い会話は億劫なっており、家内は二度の口内の手術で言葉がやや不明瞭になり、夫婦の会話は若干減っています。

 

   少し前の日経新聞の土曜版の記事の見出しに載っていた上記標題の文を読んで
   「これって我々のような夫婦に対する表現かしら…」。
「いや我々はもう実を生らせてしまって枯れてはいるが萎れちゃあおらんだろう。身体のあちこちに支障はあるにしても、生活は比較的に活発だ…と思うよ」

 

   作品では初めは介護者(主人公)と患者(その妻)との間に口論が結構あったようですが、妻の死期がさらに近づいて、もう収まったようです。

 

    『彼と妻とは、もう萎れた一対の茎のように、日日黙って並んでいた。しかし、今は、二人は完全に死の準備をして了った。もう何事が起ろうとも恐がるも のはなくなった。そうして、彼の暗く落ちついた家の中では、山から運ばれて来る水甕(みずがめ)の水が、いつも静まった心のように清らかに満ちていた』
                  (横光利一「春は馬車に乗って」より)

…………………

    横書き

http://www.aozora.gr.jp/cards/000168/files/904.html


   縦書き

https://books.google.co.jp/books?id=foD6P0XvFBIC&am…mp;f=false

………………

 

   我が夫婦もいずれこうなるかな。こうなるとしても少なくとも今はまだ「死の準備をして了った」という状態ではないことは確かだ。まだやることは多い。

 

.


閲覧数823 カテゴリ日記 コメント2 投稿日時2016/02/11 06:30
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コメント(2)
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  • 2016/02/12 20:19
    shinobiさん
    身につまされる思いで読ませていただきました。
    二人一緒にその時期を迎えられるのは幸運だと思います。
    次項有
  • 2016/02/12 23:33
    鉛筆コッチさん
       我が家ではこの話とは逆に、現在既に要支援である私が介護されて先に逝く可能性が髙野で、エンディングノートをもっと充実さえなくたは…と思っています。

       ここの話はそんな処世術的なものではなく精神的な死の準備を云っているのでしょうが。
    次項有
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