2016年04月29日(金) 

 

>■仮説を先に立てる
>いつも念頭に置いているのは「仮説を先に立てる」ということ。ほとんどの場合、「情報を先に見て」、それから仮説を立ててしまう。

 

思い付き・思い込みに類するものですか。

 

>前例主義というのは「情報→仮説」という順番で物事を考える事で起きる。過去の情報を集めてきては「仮説・検証」を繰り返す。しかし、こうした行為が前例主義になり、身動きが取れなくなってしまう。

 

自己の発想がなくて、楽な前例主義となるのですね。

>多くの人は重要な決断に迫られた時に、できるだけたくさんの情報を集めて、それから仮説を導く。でも、そうしていると新しい事は何も生まれない。

 

現実を生き抜くための処世術でしょうね。

>仮説を立てる時は、誰でも得られるような数字のデータではなく、「日常生活の中で、なんとなく集まってくる情報」そして「自分の中にある価値観」の方が大切である。

 

全ての考えは文章になる。文章にならないものは、考えではない。

潜在思念は、恣意 (私意・我がまま・身勝手) である。恣意は、文章にならない。これは、人間もアニマルも同じである。恣意で仮説は立てられない。過不足のない非現実の世界は、未来時制の文章内容なしでは表せない。日本語には時制がない。文章が無けれれば、意味もなく、矛盾を指摘することすらできない。日本人には、正しい (矛盾ない) 仮説は立てられない。文章にならない想いは、空想・妄想となる。

考えにならない単語は文章として公言されることなく、腹の底にたまる。人々は、談合を開いて、腹の探り合いをする。腹をくくって決着する。その決着にはリーズン (理性・理由・適当) がない。リーズナブルな答えに見放された人たちの行動は危険極まりない。結果的に腹切りのようなものになることもある。


山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘している。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。

 

 

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閲覧数877 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2016/04/29 10:19
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