2016年05月29日(日) 

 

 


>インディビデュアル(individual)は現在ではごく普通に「個人」として使われているが、この言葉が導入された頃の日本にはそういう観念は存在しなかった。神や社会に対する究極的な単位として、それ以上は細分化できない唯一の存在といった意味での個人が、かつての日本にはなかった。当時、日本人は社会の「身分」として存在はしていても、個人としてではなかった。

現実に関する内容の考えは、誰もが同じ内容である。もしも食い違いがあれば、事実関係調べが行われて、事実が明らかにされた後、訂正され決着する。

非現実を内容とする考えがあれば、その内容が必ずしも相手と同じには成らないので、個人の違いを認めなければならない。非現実の考えが無ければ個人は認められず、個人の考えを大切にする個人主義もない。

日本語のように文法に時制が無ければ、過不足のない過去・現在・未来の世界の内容をそれぞれに独立して描くことはできない。だから、世界観が成立しない。'あるべき姿’ の非現実の世界が脳裏に現れてこない。

 

>いま社会といったが、これも後世の造語だという。今日使われているようなソサイエティ(society)の訳語である「社会」に対応する現実は往時の日本にはなかった。存在したのは家とか藩とか邦といった集団における身分であった。個人を構成単位とする人間関係を社会だとする考えは、むしろこの訳語が成立して以降のことらしい。

 

序列があれば、身分・階級が形成される。これは、現実を見ればわかる。日本語には階称 (言葉遣い) があるので、身分・階級の保持と固定が比較的容易である。言語の仕来りにより人々は誘導されて行動するので、天皇家も家元も老舗も我が国では長続きしている。個人単位の活動をするには、個人単位の判断が必要になるが、これは日本人には難しい。だから、個人単位より派閥単位の政治が好まれている。これでは’上意下達’ の暮らしから逃れられない。したがって、政党政治の意味合いも英米とは違ったものになっている。不自由を常と思えば不足なし。

 

我々は、今なお序列のしがらみの中で生きている。しがらみを頼りに生きている。だから、不自由はつきものとして諦めなくてはならない。受け身の姿勢で生活すれば、それだけ批判されることも少なくなる。だが、子供じみている。批判に耐える個人が我々の社会には必要なのである。

西洋人は哲学を頼りに生きている。だから、個人に思想の自由が必要になる。自由には責任が伴う。’原爆を投下するか・しないか’ をよく自分の頭で考えなくてはならない。そして、投下の謝罪は必要ないと結論するに至った。考える人にはストレスがかかる。日本人は、そのストレスに耐えられるか。大人になる教育は、用意されているのか。

 

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閲覧数791 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2016/05/29 20:27
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