2016年09月19日(月) 

 

 

 

>わが国は、欧米由来のヘンなリベラリズムや空想的な地球市民主義にかぶれさえしなければ(困ったことに知識人や政治家ほどかぶれやすいのですが)、もともとナショナルなまとまりを維持できる条件に恵まれているのです。

 

そうですね。だが、この世の中で我が国は文化的な鎖国を続けるわけにはいけませんね。無哲学・能天気では地球村の村民にはなれないでしょう。’我が国は地球上にあって、世界に属さず’ ですね。

 

>日本語という統一言語、島国という地政学的条件、天皇をいただく長い歴史を持つ文化的同質性等々。

 

日本語には階称 (言葉遣い) がありますからね。我々の序列人間・序列社会は避けられないでしょう。異質な体質。普遍性を求めるのは難しいでしょうね。


>わが国で、牧師さんが僧服姿で歩いていたり、坊さんが袈裟を着て公共の場所に出入りしたりすることを禁止するなどということが考えられるでしょうか? 

>おそらくムスリムが「ブルキニ」を着て湘南海岸で海水浴をしていても、誰も文句を付けないでしょう。

>この驚くほどの寛容さと安定感覚が何に由来しているか、よくよく考えてみましょう。

 

着眼点の違いですかね。

日本人の礼儀作法は、序列作法ですからね。日常的な上下判断は、我々の強迫観念になっています。これは、寛容どころではない。


>それは欧米や中国のように、多民族どうしの軋轢と摩擦に悩まされてこなかったからです。

 

そうですね。我々の歴史は、民族浄化には馴染みがないですね。

 

>彼らは長く悩まされてきたがゆえにこそ、EUとか、共産主義とかいった、維持困難な苦しい理念を掲げざるを得ないのです。

 

非現実の内容を現実の世で実現させるのには、それ相当のたゆまぬ努力が必要ですね。夢でしょう。それが人間の人生というものではないでしょうか。

 

>私たちは、永く天皇の存在によってまとめられてきたこの文化の同質性のありがたさを、もっともっと自覚すべきだと思います。

 

日本語には、階称 (言葉遣い) がありますからね。われわれの序列人間・序列社会は避けられませんね。哲学 (非現実) が無いので個人差がない。見栄と外聞 (現実) で判断する。切って揃えられたようなメンタリティ (考え方) を示す日本人は、自他ともに危険な存在でありますね。’自分さえ善ければ・・・・’ の考え方は、もう終わりました。処世術万能ではない。グローバルな (地球全体の)、ユニバーサルな (普遍的な) 考えの広さが必要ですね。哲学が必要です。

 

>ゆめゆめ欧米を見習ってわざわざ低賃金競争や文化摩擦を引き起こす移民政策などに手を出してはなりません(残念ながらもう政府は手を出しているので、何とかこの動きを阻止すべきなのですが)。

 

立憲主義、人権、民主主義といった近代憲法の諸概念は、欧米を見習わなくてはなりませんね。これらは多様な個人の共生を可能にする基礎ですから、我々も普遍的なものとして受け入れなければならないでしょう。阻止すべき動きではありませんね。様子を見ながら、失敗しないように、じわりじわりと進める。我々はアニマルそのままの姿から、少々人間らしくなってきた。要は、我々の進路を間違えないこと。

 

 

 

 

 


閲覧数528 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2016/09/19 01:57
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