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2016年10月04日(火) 

可睡斎の六文字穴のことです。

過日、可睡斎を訪れた際に広報の方(お坊さん)に可睡斎の名前の由来を聞きました。

 

(六文字穴)

 

そのむかし徳川家康幼少の頃、武田の軍勢に攻められて父親と一緒にこの六文字穴に逃げ込んだおかげで助かった。

その後、家康が浜松城主?になった際に可睡斎の僧侶も招待された席で、家康が話している途中で居眠りをしてしまった。

他の家臣が慌てて起こそうとすると家康は「捨ておけ、捨ておけ」と言って許した。

それから寺の名前を「可睡斎」とした。

 

 

まず、徳川家康の父(松平広忠)は1549年に24歳で亡くなっています。

その頃、家康(松平竹千代)は今川義元の人質となって駿府に住んでいます。

(家康は9歳~10歳くらい)

 (大樹寺:松平家の菩提寺)

 

当時駿河、三河、遠江は今川家の支配下にあったため、武田は遠江には攻めて来れない筈です。

ましてや竹千代が今川を抜け出して父親とともに戦うことなどあり得ない話だと思うのです。

 

(松平広忠の墓/大樹寺=岡崎市)

 

最後に六文字穴ですが漢字の六ではなくて数字の6の形をしているからそう呼ばれていると思いますが、当時から英数字は存在していたのでしょうか?

 

 

 


閲覧数1,443 カテゴリ日記 コメント2 投稿日時2016/10/04 00:09
公開範囲外部公開
コメント(2)
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  • 2016/10/04 09:58
    マサシさん
    父親と一緒?六文字穴へ逃げ込んで、敵が探しにきたが蜘蛛の巣が
    張ってあったのでいないだろうということで助かったという話は
    聞いたことがあります。そんなに幼少期だったか?
    次項有
  • 2016/10/04 11:51
    鉛筆shinobiさん
    > マサシさん
    ネットで可睡斎の由来をあちこち検索してみましたが、幼い家康が父親と一緒、武田軍からの攻撃に際して、と記されています。
    家康が父親と一緒に居られたのは家康が6才までです。
    どう計算しても矛盾だらけで眠れないです。

    可睡斎の家紋もその頃拝領されたという三つ葉葵です。
    でも当時の松平家の家紋は立ち葵でした。
    三葉葵は後年になって本多家と交換したものです。
    次項有
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