2017年04月10日(月) 

 

>【日本語とは何か ( 日本語と英語は本質的に違う )】  
>世界には、本質的に異なる言語が、二種類ある。

 

その他にも本質的に違った言語があるかもしれませんよ。


>少なくとも、日本語は英語とは本質的に異なる。多分、欧米の他の言語とも本質的に異なるだろう。
>日本語と英語のそれぞれの語彙、文法、そして発音が違うのは勿論であるが、日本語と英語の基本的なスタンスが全く違う。
>結論から言うと、日本語は‘気持’を伝えるための言語であり、英語は物事、すなわち‘モノ・コト’を伝えるための言語である。

 

英語も日本語も、気持ちを伝えることが出来るのではありませんか。


>日本語は自分の気持を相手に伝えようとするのだから、当然、‘主観’の表明である。

 

自分以外の人の気持ちを伝えることもあるでしょう。気持ちは主観的な内容ではありますけれどもね。

>英語はモノ・コトを伝えようとするから、‘客観’的説明となる。

 

日本語も、実況放送・現状報告の内容を伝えるための言語の様ですよ。つまり、現実しか表現できない言語の様です。


>そして、その結果、日本語は自分の主観的気持を述べる‘感想文’とでもいうようなものになってしまう。

 

感想文よりも、気分を述べるバラバラな単語の群れの様です。和歌・俳句がその例です。日本人に人気があります。

 

>これに対し、英語は客観的にモノ・コトを伝える‘説明文’である。

 

英語は文章になります。歌詞も文章になっています。日本語の歌詞は、バラバラな単語の群れです。


>気持と事実(モノ・コト)、主観と客観とはまさに正反対のものである。

 

気分の内容は主観的、事実の内容は客観的ですね。

 

>主観的気持を主観的に伝えようとする日本語と客観的事実を客観的に説明しようとする英語は本質的に異なる言語である。

 

英語も日本語も、主観的な気持ちと、客観的な事実を伝える言語の様ですよ。


>(略)

>【追補 主観と客観、そして、意識の誕生 (日本語とは何か)】  
>日本語は主観の言語である。

 

日本語には、客観もあるのではないのですか。


>英語は客観の言語である。

 

英語には、主観も客観もありますね。


>ところで、主観とは、客観とは何か。なにが違うのか。

 

思想において、個人に依存する判断が主観、そうでないものが客観ではありませんか。


>日本語の「悲しい」は、自分の気持ちそのままの表明である。

 

単語には文章としての意味が無い。「悲しい」は、自分の気持ちか、他人の気持ちか、判断できませんね。

 

>主体である私の感情のそのままの表明である。

 

他人の感情かもしれませんよ。

 

>いってみれば、主感の告白である。

 

文章にならないと判断の内容がわかりません。ですから、主観・客観の区別はできませんね。

 

>ただ、言葉、例えば‘悲しい’という言葉は概念である。

 

そうですね。

 

>事態を抽象化し、言の一葉に託したものである。

 

そうでしょうね。

 

>感情という事態を ‘悲しい’という言葉に見做したのである。

 

そうですね。’悲しい’ は感情の種類でしょうね。

 

>そういう意味で「悲しい」という表現は主観である(観るという見做しが入っている)。

 

文章でないから、判断はできませんね。


>言葉が発明されたことによって、主感が主観として表明することができるようになったのである。

 

主観と客観の区別は、文章内容に関した区別でしょう。「悲しい」は単語ですから、その区別はありませんね。


>英語の「I am sad.」を日本語に直訳すれば、「私は悲しい状態にある」となり事態の説明である。

 

‘I am sad’. は文章ですね。文章には意味がある。この場合は、主観的ですね。

 

>これは、第三者の立場に立って自分の状況を観察し、これを描写しているのである。

 

自分の立場に立って述べているのでしょう。


>これが客観である。

自分のことを述べているのだから、主観的でしょう。相手は全く逆に狂喜しているかもしれません。

 

>日本語の「悲しい」により近い英語訳は「I feel sad.」である。

 

「悲しい」の主語は、’I’ (私) とは限りませんでしょう。直訳にもなっていませんね。

前者は単語、後者は文章です。両者はantonym (反意語・反義語・反対語) の関係にあります。文章は単語の集合体であります。文章でなければ、単語でしょう。単語には、文章としての意味がありません。

「悲しい」は、文章ではありませんね。単語です。文章としての意味もありませんから、その矛盾も指摘できません。

 

>‘feel’は主感である。

 

ただの単語では、主観・客観の区別はつかないでしょう。完全な思想を表さなければ、主観・客観の区別はできないのではありませんか。

 

>ただ、どう‘feel’するかという意味で‘sad’を加えなければならないので、やはり説明的となってしまう。

 

完全な文章になっていますね。

 

>英語には、例えば「I sad.」、あるいは「I sady.」という表現はありえないのである。

‘I sad’ とか ‘I sady’ は文章ではありませんね。文章の形態をなしていません。ですから、文章としての意味が無い。しかし、英語にも日本語にも、単語も文章も存在しますね。

 

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」


生涯のつまずきを避けるためにも我々は発言を文章にして語ることが大切であります。だが、日本語の場合は、時制がないので、英語のように異なる次元の文章を並置した上で比較して自らの結論に導くことはできません。だから、英米人のような大人の話はできない。そこで、以心伝心・不立文字となる。こうした精神状態では、国際社会に立つことはできないでしょう。彼らの言語では、考えは必ず文章になる。文章にならないものは、考えではありません。

 

 

 

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閲覧数721 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2017/04/10 11:40
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