2017年05月10日(水) 

 

 

 



>三島由紀夫 「からっぽ」な時代での孤独 リンク より
>昭和45年7月7日、サンケイ新聞(当時)夕刊に、ある記事が掲載された。

 

>「果たし得ていない約束-私の中の二十五年」と題されたその記事は、異様なまでの焦燥感にみたされていた-「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」。

 

本来、無哲学・能天気の日本人は ‘からっぽ’ の存在です。それに日本人らしき色合いをつけているのが序列メンタリティですね。

抜け目が無いのは、’今だけ、金だけ、自分だけ’ の処世術のためです。哲学 (非現実) が無い世の中では、処世術 (現実) を頼りにして生きて行くしかないのです。

それでもいいと思っている人たちは、無哲学・能天気な人たちです。貴方が適当な改善策をださないのなら、口をきいても無駄ですね。無力感、焦燥感と続くのでしょうね。

 

>世間は、3月にはじまった大阪万博に酔いしれていた。岡本太郎の「太陽の塔」が、高度経済成長の象徴のように君臨していた。人々が空気のように豊かさをむさぼり吸っている傍らで、三島由紀夫はひとり立ち尽くし、口を覆っていたのである。

 

我が国は、経済大国になるのですね。金の力を信じつつ、序列万能のメンタリティから少しづつ解放されるのですね。なんだか、むなしいものがある。


>もし日本人の日本人らしさが「豊かさ」にあるとしよう。ではそれを失ったらどうなるのか? 他国がより安い製品を作れば失われてしまう、そんな場当たり的な価値観を「日本人らしさ」の基準にしていいのか。

 

それは、場当たり的ではないのです。繊細な揺るがぬ日本人独特の価値観に裏付けられて得た ‘豊かさ’ の結果です。

無哲学・能天気の日本人には哲学的な価値観が無い。‘らしさ’ は気分・雰囲気の問題ですね。言語で言い表すことは出来ない (nonverbal) が、品定めならきる。

この非言語の価値観にも、真の価値が有る。それを人々は現実に求めています。金を払う。だから、我が国は、金を得て ‘豊かさ’ がある。ただの ‘安さ比べ’ の道には豊かさは無い。

趣味は、論拠にならない。(There is no accounting for tastes). だから、日本人は議論ができない。だが、現実に力がある。気分・雰囲気の表現に徹すれば、歌詠みになる。

 

>確かに学生たちは繊細だった。昭和43年の学生運動、「全共闘運動」と呼ばれる大学生たちの反乱には、戦後=民主主義への違和感があったからだ。耳に心地のよい正義感、正論を吐いている学者たちは何をしているのか。しかも日本は経済的な快楽に溺れ、アメリカの言いなりになっている。正論の裏にある、時代の空虚と偽善、その閉塞(へいそく)感を破壊せよ。そのためには民主主義にすら、一度は「否」をつきつけよ-学生もまた三島同様、焦燥を募らせていた。

 

民主主義には違和感がありますね。その成果は自己判断の上に立脚している。それが出来なければ、民主政治は衆愚政治となる。

学者たちは、受け売りをしているのです。耳に心地の良い正義感、正論を吐いているのは、 ‘今だけ、金だけ、自分だけ’ の処世術に因るものです。無哲学・能天気の人はそうなります。

自己が無ければ、相手の言いなりになるしかないでしょう。民主主義は最低である。だが、それ以上に優れた政治形態がいまだに発表されたことが無い。

 

>だが、と三島は思った。私は万博に酔いしれる人々はもちろん、彼ら大学生たちとも違う。学生たちは私三島を誤解しているし、半分までしか理解しあえない。

 

そうでしょうね。同感です。酔いしれるのは、日本人の自己慶賀の伝統に因るものです。そのあとから脱線もついてくる。

大学生も伝統的です。現実に対する不満はあるが、非現実に関する自己の提案はない。そして、やけっぱちになる。

両者はともに伝統の枠から逃れえない。同じことの繰り返しである。日の下に新しきことなし。だから、閉塞感がある。

 

>なぜなら自民党がつくりあげた戦後社会を、私三島は呪っているからだ。「からっぽ」な社会を否定する気分は、学生と同じだ。では何がちがうか、それは私は日本の文化を守るために戦後を否定しているのであって、学生のように破壊と否定、革命だけを夢想していないからだ。

 

無哲学・能天気の人々の社会はもとから空っぽですね。それは、頭の中が「からっぼ」だからです。日本の文化は文章化できない。以心伝心・不立文字です。しかしながら、非言語 (nonverbal) でも価値が有る。だから、世界の人がそれを求める。我が国に、資金か還流する。呪ってばかりはいられません。

 

>私には明確な目標がある、否、正確に言えばまだ果たしていない「約束」がある。それは戦前の若者が、なぜ死なねばならなかったのか、何のために命を投げ出したのかに答える、という約束である。

 

それは ‘空っぽ’ の頭と ‘序列メンタリティ’ のなせるわざでしょうね。’○○は死ななきゃ治らない’ といわれていますが、実際には死んでも治らないですね。

 

>だから私の人生は、つねに死を飼って生きてきた。最初は戦争で、2度目は多くの友人が死に、そして3度目は戦後を生き延びた「老い」の感覚によって。

 

わかりかねますね。死んでも治らない。

 

>そして三島は思った、文化を担う「天皇」だけが、この約束を果たす存在であると。戦後のふやけきった日本を停止し、文化の咲き誇る「日本」を取り戻すには、天皇こそ必要なのだ。全共闘の学生は、三島のこの言葉=天皇を受け入れることはなかった。だから三島と学生は、「半分」までしか理解できないのだ。

 

序列メンタリティの人間は、天皇を原点として世界を展開しなければならない。だから、その内容はグローバルにも、ユニバサルにもならない。全共闘は破壊に熱心。新世界の内容を提案しない。内容を提案しても意味が無い。日本人にはその意思が無い。

 

>三島は経済大国日本にも、また学生にも同調できなかった。戦後のどこにも居場所はなく、その華やかで過激なまでに豊穣(ほうじょう)な小説群に抱かれながら、なお、自らは孤独であると感じていた。

 

不満はあるが、提案はない。駄々っ子の様なものですね。哲学的な自己主張がない。消去法により自己主張しようと試みるが、それは無益というものですね。消去法オンリーの戦いでは不毛の議論になる。’からっぽ’ の国民性が問題です。’からっぽ’ と消去法の矛盾が根本にありますね。

 

>そして思った、戦前の人々と交わした約束を守るには、戦後の象徴天皇制はもちろん、明治立憲制下での天皇にも疑問があると。天皇は政治ではなく、文化のためにこそ奉仕すべきであり、神でなくてはならないと。

 

そうですね。下々は現人神をまつらなければならない。それが、序列メンタリティというものでしょう。西洋の皮を被った天皇制には不満がありますね。無哲学・能天気の人間が、‘考える人’ になる事はおいそれとはゆかない。それは、言語の問題があるからです。この根本原因を精査して、着実に改善を実行する以外にありませんね。私は、それを目論んでいるのです。

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閲覧数69 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2017/05/10 05:54
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