2017年08月15日(火) 

 

>学校は、作られた世界に過ぎない。>現実の世界とは違う。

 

学校も現実の中にあるでしょう。学校は現実の内容ですね。

 

>ところが、学校にいる人間は、そのことを自覚していない。>それ故に、現実と虚構の世界が混同してしまい、作られた世界が真実であり、現実が、あたかも虚構の世界のように、子供達に錯覚せてしまう。

 

現実の内容は頭の外にある。非現実・虚構の内容は頭の中にある。二者は所在が違います。ですから、同じにはならない。

 

>学校にあるのは、現実の世界の標本のようなものである。一見、現実を模倣しているが、現実とは、まったく違うものだ。>偽物である。>だから、なおさらたちが悪い。>子供達は、偽物を本物と教えられて、あたかも現実を理解したかのごとく信じ込んでしまう。

 

学校の内外で、模型・偽物を使って現実の理解を助けていますね。だから、我々にも原子の世界を見ることができます。

 

>偽物を本物、本物を偽物と教え込まれたら、正しいものを見極める眼は養われない。

 

偽物を偽物、本物を本物と教えたらよいでしょう。これは、子供には難しいでしょうね。

 

>子供達の純真な、眼を潰して盲目にしているようなものだ。>正しい眼が養われなければ、正しい行いもされない。

 

ペテン師が学校を開設しているように表現するのは、良くないですね。大人になれば、目覚める人も多いでしょう。

 

>実際の世界を観察し、新しい発見をすることは、学校では許されない。

 

そうですね。新発見は無視される傾向にありますね。’個人の意見は通らない’ などと言っていますね。

 

>しかし、学問というのは違う。>現実の世界を観察し、新しいものを発見するのが、学問である。

 

そうですね。我々は、考える人にならなくてはなりませんね。

 

>学校で教えているのは、もう学問ではない。>では、学校で教えているのは、何なのか。

 

そうですね。詰め込み教育は良くないですね。

 

>教師は、万能の神のごとく存在している。

 

子供から見た大人はそのようなものでしょう。

 

>答えは、常に、教師が用意するのであり、その答えは絶対である。

 

弟子が師に教えを乞うのは、昔のことでしょう。

 

>用意した答え以外の答えをすることは、許されない。

 

暗記力のテストですね。

 

>神である教師は、生徒、一人一人の運命をすら握っている。

 

それは、テストの成績を序列形成の根拠として利用するからでしょう。

 

>彼等の作り出す問題によって、生徒一人一人の人生すら決められてしまう。

 

序列社会においては、序列順位で事柄が決められますからね。

 

>学校では、この世の全ては、教科書によって決められていることになる。

 

暗記ものの学校ですか。正誤判定には便利だが、実利が無い。

 

>教科書に書かれていることだけが正解であり、教科書に書かれていないことは、それが世間一般では、常識、正しいこととされていることでも間違いになる。

 

正解を求めることは、難しいですね。矛盾のない考えは、全て正解ですね。だから、正しい考え方の習得が必要です。自主独立した人間が育成されます。

 

>子供達にとって教科書の中の世界が、現実なのである。

 

子供たちには、非現実はないでしょうからね。

 

>しかも、学校の世界の住人は、自分たちが作り出した現実以外を認めようとはしない。

 

恣意的な教育ですね。恣意 (私意・我がまま・身勝手) は文章内容にはなりませんから意味が無く、矛盾も指摘できません。独りよがりになる。

 

>教科書に決められたこと以外正しくないとされれば、教科書がなければ何もできなくなるのは当然である。

 

そうですね。それは困ったことですね。戦前は国定本を使用して、金太郎あめのような人間を作りました。

 

>しかし、現実の社会には、教科書などない。>自分で判断し、解答は生み出さなければならない。

 

そうですね。我々は ‘考える人’ になる必要がありますね。

 

>これでは、学校の作り出した現実と本当の現実とが乖離し、世界観そのものが歪められてしまう。

 

世界観 (非現実) は、現実とは別のものになりますね。現実は一つ、世界観は多数。個人個人で違っている。

 

>このような教育を受けた者は、あらかじめ用意された答え、指示されたことしか答えられない。

 

それは残念なことですね。詰め込み教育ですね。

 

>しかし、現実の世界に用意された答えはない。>条件や環境が変われば、答えは毎日のように変わる。

 

そうですね。現実界は千変万化しますね。しかし、日の下に新しきものなし。人は考え直すから、新しいものを発見する。

 

>変化する環境や状況に即応し、適切な判断を下せる力をつけさせることが、本当の教育の目的である。

 

同感です。我々は ‘考える人’ になる必要があります。

 

>人生の悩みや大切な価値観は、教えられない。

 

聖人・君子の話を聞くのも良いでしょう。自力で行きましょう。

 

>人生の岐路に立ち、苦しんでいる生徒達に対し、教師は無力である。>学校では、何もかもが、決められている。>しかし、現実の世界では、そのようなことは希有な事である。

 

そうですね。我々は自由の世界に住んでいますからね。個人の発想が必要ですね。

 

>決められたことだけが正しくて、それ以外のことは、間違いになる。>用意された答えの中から正解を選ばなければならない。

 

野球のルールのようなものですね。外の世界は考えられない。

 

>そこには、創造性はかけらもない。

 

創造性 (非現実) は現実の問題とは別次元ですからね。現実の内容は頭の外にある。創造 (非現実) の内容は、頭の中にある。

 

>こんな環境に長くおかれれば、決められたこと以外できなくなるのが、当然の帰結である。>そして、決められた答えがないと不安になる。

 

そうですね。だれもが異口同音を期待していますね。

 

>逆に、どんな困難なことにぶつかっても、その事実を認識できず。誰かが、正解を出す事を期待するか。

 

他力本願・神頼みですか。無為無策でいて座して死を待つ。覚悟はできている。

 

>どこかに決まった答えがあると、現実を常になめてかかるようになる。>予期せぬ答えは、許されない。

 

想定外の内容は、存在しないことに決め込んで安心することを意味するのですね。

 

>しかし、現実の世界は予期せぬ出来事ばかりである。>だから、学校は、現実の適合できない人間を多く生み出すのである。

 

意思と哲学が必要ですね。どちらも非現実の内容です。非現実の取り扱いは、日本人には難しい。

 

>ただ、それが大きな問題にならないのは、まだ、戦後の教育を受けた者が、決定を下さなければならない立場に立っていないからである。>しかし、兆候は、すでにある。

 

昔から、意思決定に関しては問題があるのではないでしょうか。日本人には意思が無い。誰も個人の意思を求めない。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。

 

>試験に受かること以外、目的が、ない世界。>学校とは、そういう世界である。

 

受験校のことですか。試験さえなければ、学生生活は楽しい?

 

>生きていくために必要な知識や技術は、何も学校では教えない。>なぜならば、学校生活には、それらの知識や技術は、不必要だし、かえって弊害になると思われているからである。

 

この世の中には人手不足はあっても、頭脳不足の話は聞かれませんからね。無為無策で大学4年間を過ごせますね。

 

 

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閲覧数477 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2017/08/15 03:30
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