2017年08月30日(水) 

 

 

> ○理不尽でも黙って指示に従うのが正しい生き方か?

>「みんな仲良く」だとか「人類みな兄弟」みたいな教育があまりにも徹底され過ぎて、何があっても怒りという感情を抑えなければならないと教育されたらどうなるのか。

>「怒りを感じたらいけない……」

 

‘怒りは敵と思え’ ということですね。

 

>「理不尽なことをされても仲良くしなければ……」 「自分が我慢しなければ……」

 

‘忍耐は無事長久の基’ ということか。

 

>このような思考回路になっていくのは容易に推測できる。とにかく協調性を崩さず、その場を丸く収めることばかり求められるようになり、不安の中で生きるしかなくなってしまう。

 

‘和をもって貴しとなす’ の教えですね。

 

> (中略)

>ただ「面倒を避け、対立を避け、トラブルを避け続ける」だけしか学ばないで義務教育を終われば、面倒や対立やトラブルだらけの社会では押し潰される。 世の中が理不尽なことや危険なことを教えるべきだ。

 

そうですね。

平和憲法があるから我が国は安全だとか、自分が武器を持っていなければ相手を心配することはないとか、横断歩道の上を歩けば安全だ、等、独りよがりの想いに酔いしれている。危険極まりないですよね。要は、自己の安全は相手の意思次第であるということです。

日本人には意思が無い。だから、自分の意思を表明しようとする努力もなく、相手の意思の内容を知ろうとする励みもない。あるのは自分に都合の良い忖度のみ。我々は、オオカミと七匹の子ヤギたちの話の中の子ヤギの状態にあります。オオカミの意思の内容についての詮索はない。

 

>その中で押し潰されないようにする方法を教えないから、若者たちはどうしたらいいのか分からずに、最初から最後まで自分を殺して生きることになってしまう。

 

‘不自由を常と思えば不足なし’ ということか。

 

>なぜ、「正しいことを主張する」ことを教えないのかというと、今の学校は若者をサラリーマンにするための養成学校のようになっており、「主張するより上司に従うこと」が優先されるからである。

 

日本人には、意思が無いのだから、意思の表明はできません。相手に従うしか手がありませんね。意思は未来時制の文章内容であり、日本語文法には時制というものがありません。だから、日本人には意思がありません。だが、恣意 (私意・我がまま・身勝手) はある。

意思は、文章になるから意味がある。矛盾があれば、それを指摘することもできる。だから、議論になる。

恣意は、文章にはならずに、バラバラの単語のままである。意味もなければ、矛盾すらない。小言、片言、独り言として発せられた単語を、関係者が忖度 (推察) してことを運ぶ。まるで三つ子の世話をするみたいである。曖昧な言語の運命によるものか。

 

>「上司の命令が理不尽でも黙って指示に従うのが正しい生き方だ」というのを学校から教えて社会に出して、サラリーマン社会でクビにされないようにしているのだ。

 

日本人にはリーズン (理性・理由・適当) が無いのであるから、リーズナブルな答えなどは、とても期待できないですね。だから、問答無用になるのです。

 

> 相手がどんなに理不尽なことを言ってきても、自分の主張は殺してひとまず謝罪したり賠償したりするように教えているということでもある。

 

自分に ‘あるべき姿’ の内容が無いので、自己主張ができない。友人ができない。孤立無援で、自分さえ良ければの考えに走る。

 

>こんな生き方を義務教育で徹底されたら、誰でも主体性を失って流れるように生きるしかない。本当に、こんなことでいいのだろうか。

 

‘あるべき姿’ の内容が無ければ、主体性はない。’子どものような大人’ で良いはずが無い。意思のある人間を作る必要があります。それには、英米流の高等教育が必要です。

 

 

 

.

 

 

 

 

 

 

 


閲覧数426 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2017/08/30 18:14
公開範囲外部公開
コメント(0)
  • 次項有コメントを送信
    閉じる
    名前 E-Mail
    URL:
■プロフィール
シンちゃんさん
[一言]
明るい未来社会を築こう
■RSSフィード
RSS 1.0 RSS 2.0 Atom 1.0
■このアルバムのURL
https://e-jan.kakegawa-net.jp/blog/blog.php?key=833156