>学校社会は、試験によって支えられている世界である。>極端な話、試験が全てである。>試験勉強に始まり、試験で終わる。>そう言う学生生活を大半の人は送らされる。
そうですね。学業の成果が期待されていますね。
>ならば、教育を考える場合、良きにつけ、悪しきにつけ、試験制度とは、何かを、問わざるをえない。>試験制度では、設問も、答えも、予め用意されている。>つまり、問題も、正解も、所与のものである。>出題、設問の元になる根拠は、絶対的なものである事が大前提である。
答えが一義的に定まるものでなくては困りますね。
>なぜならば、問題の根拠があやふやでは、試験制度そのものが成り立たないからである。
現実の内容に関する問題と答であれば、あやふやにはなりませんね。
>そして、導き出される正解も、絶対の真理でなければならない。>過ちは、許されないのである。
正解には、矛盾があってはなりませんね。
>学校教育を受けた多くの人は、この世の全ての事柄は、科学的に解明されていると錯覚しているものが多い。
科学は哲学 (非現実) ですからね。答えは、いくらでも考えられます。だから、科学は進歩する。
>それは、学校で、教科書に書かれている事は、動かしがたい、絶対的な真理であるかのような教え方を、されたことが、原因である。
‘ゆめゆめ疑うことなかれ、、、’ ということですか。
>そして、それを教えている先生は、神の如き存在に見えるのである。
学校という序列社会の権威主義ですね。
>教科書に書かれている事が、絶対的に間違いのない正しい真理ならば、主観の入り込む余地がない。
個人の主観を基礎にして真理は成り立っているのではないですか。
>そこから、客観性という考え方が、正当性を持つのである。
矛盾が無ければ正しい考え方であり、主観の内容は客観的なものになるのでしょう。
>そして、客観的に見て正しいことであるならば、試験問題としての妥当性が保障される。>試験問題は、この客観性に依拠して成立している。
そうでしようね。
>ところが、肝心の科学は、この世には、絶対的なものはなく。科学の根本は、仮説であり、理論は、相対的な体系としている。
科学は哲学であり、個人的な見解でしょうね。個人が違えば考えの内容も違ってしかるべきです。
>つまり、最終的には、主観的なものだと言う事を前提としている。
そうですね。主観が変わることにより、科学は進歩します。
>絶対的な真理の書は、批判を許さない書は、教科書ではなく。>聖典である。
そうですね。その内容は自明の理 (self-evidence) ですね。
>それは、科学的合理主義や、実証主義とは相容れない物である。
そうですね。証明の必要はありませんね。
>宗教的な部類にはいる。即ち、教科書を絶対視し、批判を許さないとしたら、学校は、新興宗教の一種だと言う事になる。
そうですね。でも、教科書には、自明の理以外のことも書いてありますからね。教科書を批判することと、自明の理を批判することとは同じにはなりませんね。
>つまり、試験の根本の前提と、科学の根本の前提は、二律背反な関係にあるのである。
そうですね。試験は絶対 (現実)、科学は自由 (非現実) ですね。
>ここから、試験制度、ひいては、学校制度の自己矛盾が始まる。>つまり、自分達が、絶対的でないとする命題を、絶対的な命題とする事によって、試験制度は成り立っているのである。
試験は便宜的なものでしょう。絶対的でない命題に対して個人的な見解を述べるのが試験の目的になるのでしょう。
>もし、根拠とする事実や前提に過ちがあったら、それ以前の試験の結果は、全て、偽、誤りだという事になる。
そうですね。その過ちの指摘は新発見となり、さらに我々の知識は進歩しますね。
>果たして、それは真実であろうか。
誤りの発見は、進歩の鍵であると思いますよ。
>根底となっている科学が絶対的な命題は、あり得ないとしている以上、最初から、試験制度は、破綻しているのである。
試験は、絶対の追求にはなりませんね。ただの便宜的なものでしょう。
>巨大な機構を持つ試験制度は、この様な、危うい土台の上に成り立っている、いわば、砂上の楼閣なのである。
絶対でないから進歩の余地があります。巨大な機構を持つ試験制度とは、資格試験のことですか。これは実学 (技術) のことであって、学問 (哲学・教養) ではありませんね。
>大前提に矛盾がある以上、教育者は、自らを神にするしかなくなる。
何か思い違いがあるのではないでしょうか。我が国は、神々と下々の存在する国ですね。
>さもなければ、試験制度に依拠している学校制度そのものが、崩壊してしまうからである。>そして、教科書は、現代の聖典となった。
教科書の内容は、唯一の正解ですか。初等・中等教育のことですか。
>教科書に書かれていること以外は、異端として、排斥されているのである。
有難い経典の内容のようなものですか。暗記力の問題の様ですね。
>結局、試験制度に支えられた社会というのは、一種の新興宗教だと思えば間違いない。
実学がはびこる実社会の様なものですね。
>歴史の教科書に書かれたことが、それが、実際にあった事かどうかと言う事と関わりなく、絶対的な真実となる。>歴史的な事実など、どうでも良いのである。
教科書の内容は便宜的なものですね。確かなことは、自分自身の手で調べなくてはならないでしょう。新発見はなるか。
>だから、歴史的事実より、教科書に記載されていることの方が問題になる。>そして、教師は、それが真実であるかどうかを、証明する義務はない。
ありませんね。
>ただ、書かれたことだけを、丸暗記させればいいのである。
丸暗記の指導者ですね。
>間違った事を教えても、教師には、責任はない。
他に正解が無ければ、間違ったことの証明にもならないでしょう。
>教科書が悪いのか、教科書を書いた人間が、悪いのである。
悪い物ばかりということになりますか。
>教育者は、学者ではない。
そうですね。
>多くの人間には、この点を錯覚している。
学者であればドクター (Doctor of Philosophy; Ph. D.) と呼ばれます。
>学問の探究者としての専門化ではない。
そうですね。専門家ではありませんね。
>つまり、歴史の先生は、歴史を知らなくても良いのである。
常識程度の歴史で良いですね。
>ただ、教科書に書かれていることを理解していればいい。
そういうことになりますか。一般の人を育てるということになりますか。
>そのうえで、試験勉強のプロであればいいのである。
処世術ですね。
>つまり、試験に合格するための技術を教えられればいいのである。
これも実学 (技術) のうちに入るのですね。
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