2017年11月15日(水) 

 

 

>今の大学生は本当に勉強しない。>少し前まで大学生であった自分だからこそ、はっきりと言い切れる。>暇があれば、サークル活動や趣味や旅行。>大学の授業は片手間でこなしているだけ。>テスト前に、点数を取るための行動しかしない。>どっちが、本職なのやら。

 

そうですね。大学で四年間遊んで暮らすのですね。

 

>ただ、それが悪いとは思わない。>実際、社会に出てみて、大学の授業などほとんど役に立っていない、もしくは社会にでてから追求すればしまいなことがほとんど。

 

同感です。大学の授業は教養 (哲学) ですから、無哲学・能天気な人達の住む我が国の社会においては、ほとんど役に立ちませんね。

 

>勉強しないことが悪いのではなく、勉強自体がなんの役にも立たないことが問題ではないかと思う。

 

そうですね。西洋人の勉強が何の役にも立たない日本人社会が問題ですね。

 

>大学で勉強した内容を評価する社会に移行していく、または本当に必要なことを大学の教育に取り入れるなどしないと、学生は動かないだろう。

 

我が国の実社会で評価される内容は実学 (技術) ですね。職業学校なら学生は動くでしょう。

 

>リンクより

>--------------------------------------------------

>2人に1人が大学に進学する日本では、「大卒」はもはや決して珍しいステータスではない。

 

そうですね。大卒の希少価値は、大幅に減少しましたね。

 

>しかし、就活や就職後に大卒者が優遇されることも現実だ。>学問をするために進学するというよりも、「就職するためにとりあえず進学する」という学生も少なくない。>大学も積極的に「就職塾」としての役割を担っていて、卒業生の就職先を「実績」として掲げている。

 

大学名も、○○就職塾大学としたら良いでしょうね。

 

>卒業を厳しくするだけでは解決しない

 

そうですね。原因はもっと深いですね。

 

>高等教育機関であるはずの大学は、なぜここまで威厳がなくなってしまったのだろうか。

>さまざまな原因が考えられるが、いちばんの理由としては、「卒業が簡単である」ことが挙げられるだろう。

 

それも難しい説明ですね。

 

>事実、中央教育審議会による『学士課程教育の構築に向けて』という答申では、「学生を本気で学ばせるとともに、単位制度を実質化させることは、入難出易といわれてきた我が国の大学において大きな課題」とされている。

 

本気で学ばせるとは、どういう意味でしょうかね。

 

>日本の大学では基本的に入学試験でふるい分けを行うので、入学後は勉強をそれなりにやっていれば、問題なく卒業ができる大学・学部が多いのが実情だ。>しかし、それは大学が、中身のない空っぽの学位を学生に与えているにすぎない。>だからこそ、学生にしっかりと勉強させ、大学が高等教育機関としての価値を取り戻すために、「卒業を難しくすべき」という主張は理解できる。

 

我が国の高等教育機関が形骸化する原因は、ずっと奥深いものがあるようですよ。

 

> (中略)

>しかし、学生が勉強しないのは、単に怠惰だからではないのではないか。

>一部の理系学部や医学部を除き、成績や専攻を軽んじる社会では、大学で勉強する必要がないのだ。

 

そうでしょうね。

 

>なぜなら、まだまだ就職時に大学名や大卒資格を重視する学歴主義が残り、大学教育の中身自体が信用されていないからである。

 

そうですね。身分格式の序列社会ですね。

 

>偏差値が違う大学の成績を比較することはできないため、大学名を重視するのは、ある意味合理的かもしれない。

 

簡便な上下判断ですね。

 

>また、有名大学に合格した学生を評価すること自体が間違い、というわけでもない。>とはいえ、大学名で学位の価値が決まるのなら、学生が「なにも入学してから必死に勉強することはない」と思うのは仕方ないことだろう。

 

とにかく、西洋式の教養は、日本人の身には付かないですね。

 

>「学生が勉強しない」ことの根本的な問題は、「学生の勉学に対する姿勢」ではなく、大学名を重視する学歴主義や、大卒であるという事実だけを採用の指標にする考え方にある。

 

‘上とみるか、下とみるか’ の上下判断ですね。判断は、世俗の上下に左右されますね。確かな基準にはなりませんね。’

 

>事実、偏差値という概念が存在しないドイツでは、専攻した学問と、得た成績が重視されるため、学生たちは大学で必死に勉強しているのだ。

 

西洋人は大人になると ‘考える人’ になる。

日本人は大人になると ‘歌詠み’ になる。

 

>求められているのは、「学生が勉強しないから卒業を難しくする」といった、その場しのぎの対処療法ではない。

 

そうですね。印欧語族と大和民族では、評価基準が違いますからね。その場しのぎの対症療法では解決しませんね。

 

>「大学で勉強した内容を評価する社会」への、評価基準の本質的な変革が必要とされているのだ。

 

そうですね。本質的な評価基準の変革が必要ですね。

西洋人は、文章内容による評価をする。日本人は、バラバラな単語を使っての評価をします。

西洋では、全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えである。だから議論になる。

日本語は、現実描写のための言語であります。文法に時制 (tense) というものが無いので非現実の内容を表現できません。日本人の考え (非現実) の内容は、文章の内容にならない。ですから、日本人は、現実肯定主義者になります。考えのない人は、無哲学・能天気になります。浅薄な人です。哲学は、大同になります。大同 (非現実) が提示できないと小異 (現実) が捨てられず、現実の争いに明け暮れることになります。小人の世界で国会議員は大同団結を実現することができません。離合集散を繰り返しています。

 

日本語脳には時制が無いので、単語はバラバラなままでいます。単語を発すると、相手は忖度 (推察) によりその発言を解釈します。この内容は、聞き手の独りよがりの解釈ですから、日本人は独りよがりを基準にして評価することになります。趣味は論拠にならない。There is no accounting for tastes. 忖度は、妄想の様なものです。このことを説明すると、‘だって、本当にそう思ったのだから、仕方がないではないか’ と反論します。だから、議論になりません。

 

現実の内容は、頭の外にあります。その内容を見ることが出来ます。非現実の内容は、頭の中にあります。見ることが出来ません。だが、文章になります。現実と非現実 (考え) は所在が異なるので、その内容も同じにはなりません。非現実 (考え) の内容を語る人は、考えの深い人です。考えの深い人は大同を語ることが出来ます。大同を提示して小異を捨てる努力を促しますので説得力があります。人々の大同団結を促し未来社会の建設を実現します。

 

現実の内容を現実に再現すれば、それは模倣になります。非現実の内容を現実に実現すれば、それは創造したことになります。特亜三国人 (日本人・中国人・韓国人) は、模倣が得意で、創造が苦手です。模倣の競争は参入が比較的容易で、過酷な競争となりがちであります。創造の競争は個性的で、我が道を行く完成の楽しみがあります。

日本語には時制が無いが、英語にはあります。だから、我々は日本語と英語の双方に力を入れて学べば両言語の長所を習得して、鬼に金棒の民族になります。我が国に於ける英米流の高等教育にも成功し、海外留学にも成功します。

 

 

 

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閲覧数19 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2017/11/15 13:15
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