2017年11月21日(火) 

 

> 大学出たところで、引き籠もりやニートになったのでは、世話はない。> 昔の親は、とりあえず手に職を付けておけって。> 丁稚や小僧に出したんだ。

 

口減らしですね。今では、児童労働 (18さい未満) は禁止されていますね。

 

> 大学なんて、親の反対を押し切っていたものさ。>だから、学費も生活費も自分で稼ぐしかなかった。>それが苦学生さ。>まあ、苦学生と言ったところで今の連中には解らないだろうけどね。> 養老孟先生も言っていたけど、当時は、大学へ行くと馬鹿になるって本当に思われていた。>つまりは、世間知らずの役立たずという意味さ。

 

学問 (非現実) は、世俗 (現実) とは直接関係が無いですからね。年よりは、とかく昔のことを言いたがりますからね。

 

>それでも大学へ行く、そう言う連中が大学へ行くのさ。> 伊達や酔狂で大学へいってんではない。

 

そうですね。恣意的ですね。

 

> ~・中略・~

> 昔の親や教師は、子供達が、世の中や社会に出たときに困らないようにと生きていく上で、必要な事、基本的な事を、絶え間なく躾てきた。> 例えば、挨拶の仕方とか、口のきき方、礼儀作法を事ある毎に躾、教えてきた。> 本来、それを教育と言っていたのである。

 

序列社会の序列人間になるための教育ですね。

 

>ところが、それを俗に言う闘争世代、つまり、我々から我々の一世代上までの世代の人間が、反体制、反権威の名分の本に総てを否定し、打ち壊してきたんだ。

 

そうですね。破壊は比較的容易であるが、建設は非常に難しいですね。

 

>だから、我々の世代以降の世代は、世の中や社会の中で生きていく上に必要な素養を習得できない内に世間に放り出される事になってしまった。>これからの社会は、社会人として必須の素養を身につけていない人間を前提として社会生活していかなければならないという事である。> 俗に言う、ニートもそうである。又、ストーカーも然り。人との付き合い方が解らないんだ。>また、インターネット中毒、引き籠もり、苛め、鬱、自殺、登校拒否、家庭内暴力、薬物中毒こういった事は、人と人との関係が築けない事が原因なんだ。

 

序列社会の秩序が失われた結果ですね。我が国の様な序列秩序は、外国には無いでしょうね。

 

> 大切なのは、人間の世の中で生きていくことさ。>生きる術を身につけること。>それは、単なる知識や技術ではない。>生活するため知恵でなくては役に立たない。

 

生活するための知恵というのは、処世術のことですね。

 

> 最近、確かに、職人の世界も生活が厳しくなってきたけど、手に職を付けておけば、いざという時、潰しがきく。> 手に職を付けたいなら早い方がいい。> 手に職を付けておきさえすれば、生活には困らない。

 

そうですね。生活には困らないですね。我が国には、人手不足はあっても、頭脳不足はありませんからね。

 

> ~・中略・~

> 世間に出てから、改めて大学と言うところを見直すと学生時代とは違う見方ができる。> 学生時代ってゆとりないんだよな。>とにかく、試験ができないとこの世の終わりのように思える。

 

そうですね。学生時代が思い出されますね。

 

> 何を焦っているのだろう。> 何も焦ることはない。> 先ず自分がどういう生き方をするかを決めてから大学へ行っても遅くない。

 

そうですね。大学は、生涯教育の場ですからね。

 

> 自分が何になりたいかもハッキリしないまま大学へ行ってどうするの。>だから、引き籠もりになるか、ニートになるしかないじゃない。>だってどうしていいか解らないまま、大学へ行って、遊び暮らしてそのまま卒業まで来るんだから。> 仕事なんて決められるわけはない。

 

仕事は、大学で教養をつけた後から決めてもよいのではないでしょうか。仕事は大学の後か先かで良いでしょう。

 

>とりあえず一番肝心な事を決めずに先送りするしかない。>そして、今度は、定年退職の時、俺人生何だったと嘆くの。> 馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。

 

無哲学・能天気の人生ですね。情けない。だから、大学の教養が必要なのではありませんか。

 

> 大学院へ行ったとしても今の大学院は、出来損ないの家元制度みたいなもの。> 徹底的なヒエラルヒーが出来上がっていて、教授の学説どころか、気に入られなければ、出世はできない。

 

教官の選び方も大切ですね。大学院では、高度な職業人が育成されますね。

 

> 当然、自分の教官に批判的だったり、意に反する論文は、発表のしようがない。

 

自分の教官を変えたほうが良いですね。そうすれば、学問の自由が得られます。

 

> 結局、助手のような仕事をして認められるまで我慢するしかない。> 自由な学問なんて、夢のまた夢。

 

初めから研究テーマの責任者にはなれないですね。自己を教育するための責任者は必要ですね。

 

> 十五から二十歳って人生で一番大切というか、成長する時期なんだよね。>その時を無為に暮らすなんて。

 

無為は良くないですね。成長する時期に勉強をしなくては。

 

> 学校に縛られることはないよ。>学校に縛られていたら、学校の序列で人生が決められてしまう。

 

我が国の学校は、序列社会の道具立てに利用されていますね。改める必要がありますね。

 

> 学生時代の偏差値によって人間の価値まで決められたら、自分の一生を決められたらたまったらないよ。

 

人間の価値はの序列順位で決まる。序列順位は同次元の偏差値で決まる。個人主義がない。我が国の情けない仕組みですね。

 

(略)

> 今は、大学へ行かないなんて言うと、親が反対するけれど。> 昔は、大学なんて出ても一文の得にもならない。

 

教養は、金儲けにはつながらない。これは、今も昔も変わらない。

 

>世間知らずの馬鹿になるだけだと反対する親を押し切って、大学へ行ったものだ。>本来それが大学というものだ。>なぜならば、大学は、学問をしに行くところだからである。>学問なんて、飯の種にはならない。

 

そうですね。大学は、処世術の習得には不向きですね。でも、大人になると ‘考える人’ になる。考えるためには、教養が必要です。

言語は、考えるための手段です。日本語と英語の勉強に力を入れましょう。そうすれば、世界の人に自分の考えを知ってもらうことが出来ます。

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っている。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)

 

 

 

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閲覧数500 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2017/11/21 09:12
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