>世間という観念のベースには、日本人の持つ民族性が存在します。
世間は、現実の世界ですね。
>本来、農耕民であった日本人は、共同作業を中心として、皆の顔を見て、意見を聞き、集団に同調する必要がありました。
そうですね。アニマルたちも集団に同調していますね。
>あくまで、自我を押し通す事は、悪い事として見なされ、江戸期では「村八分」、戦時中は「非国民」扱いされました。
そうですね。 日本人には、意思が無い。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものがない。ですから、日本人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見えます。 意思は無いけれども、恣意 (私意・我がまま、身勝手) がある。恣意の自由は、どこの国でも許されていない。自由の履き違えとなるからである。だから、意思の存在しない我が国では、’不自由を常と思えば不足なし’ となるのであります。
>故に、本音は大声では言う事が出来なかったのです。
本音とは、恣意のことでしょう。恣意は文章になりません。バラバラな単語のままで存在します。片言・小言・独り言として発声されます。聞き手は、忖度・推察により、自分勝手な解釈を致します。発言者に責任は有りません。
>皆の前では、建前を言い、気心の知れている仲間の前では、「ここだけの話だけれど・・・」と本音を漏らすという二重構造が出来上がりました。
建前は口実であり、本音とは恣意のことでしょう。ここだけの話では公言できませんね。公の場での説明責任が取れません。とかく、この世は無責任です。
>基本的に、日本人は私権時代において、建前に縛られているので、本音が好きなのです。
口実だらけの世の中には、誠意が感じられませんね。恣意を忖度して時間の浪費ですね。
>義理、人情が流行るのもそのせいでしょう。
義理は付き合い、人情は情けですね。基準の無いせかいをさ迷い歩くのですね。時流に流されますね。
>一方、西欧は狩猟や牧畜、略奪闘争により「本音=自我・私権」なので、集団よりもまず、個人に立脚します。
西洋人は、頭の中に非現実 (考え) がある。現実の内容は誰もが同じであるが、非現実の内容は各人違っている。個人・各人の考えを護るためには、個人主義が必要です。 西洋人の大人は、’考える人’ になります。ですから、考えの大系は哲学に成ります。学問かできます。 日本語の話は、現実の内容ばかりです。実況放送・現状報告の内容ばかりが出てきます。皆の発言が一致するので、宇宙の真理を述べているような気分になります。ですが、無哲学・能天気であることには変わりありません。
>故に上記のような二重構造は意識化では薄いと考えます。
本音と建前の二重構造では、話に信頼がおけませんね。話者の内容には掴みどころがない。
>義理や人情などなく、縄張り争いに始終し、やるかやられるかの世界です。
そうですね。力は正義ですね。(Might is right.) 強者の怒りは、抑止力になる。弱者の怒りは、ごまめの歯ぎしりになるのかな。
>このようにして考えてみると、仲間や集団を第一とした東洋、とくに島国ゆえに縄張り争いの影響をあまり受けなかった日本にこそ、現代社会がかかえる西欧化され、おかしくなっていった現状を打破する可能性があるのではないかと感じています。
信なくば立たず。信頼できる話ができないと、未来社会の建設への皆の協力もままなりませんね。 日本語と英語を学んで、時制ある考え方をも身に着けようではありませんか。さすれば、大同を掲げて、小異を捨てて、地球村の大同団結が可能になります。
.
|