2018年03月28日(水) 

 

(略)

>とにかく、生徒は、何も考えなくて良い。>決断するどころか、判断する必要もない。>決められたところに、決められた時間に、決められた物をもって行けば、とりあえず、授業を受けることはできる。>そして、予め決められた問題を、予め決められたとおりに解き、予め決められた正解によって採点される。>自分で問題を設定したり、先生や教科書を捜す必要はない。>必要ないどころか、そんなことをしたら、学校社会からはじき出されてしまう。

 

マニュアル通りに働く人間の育成ですね。

 

>しかし、本来一番大切なのは、自分で問題を見出し、自分で先生や教科書を探し出すことである。

 

そうですね。人間には自主性が必要ですね。

 

>それが本当の勉強であるはずである。なにもかも用意されていたのでは勉強にならない。

 

そうですね。学生に自主性を持たせずに押し込むように教えることを ‘spoon-feed’ というのでしょう。

 

>学校では、何でもかんでも、予め決めておいて、その決められた事に従って行動する事を要求する。>これでは、変な話、決められた事以外、決められなくなっている。>決められた事を決められたように決めるというのは、自分の意志の働きが効かない。>自分の意志で決めたのでなければ、決断したことにはならない。>だから、決められた事を決められたように決めるのでは、決断したことにはならない。

 

無理もないことですね。日本人には、意思 (will) が無い。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思が無い。だから、優柔不断・意志薄弱に見えます。学生をハキハキした態度にさせるには、号令でやるしかないのでしょう。

 

(略)

>要するに、決断したのか、しないのか曖昧なままにしておいて、結論を先送りにする。>それでおいて既成事実を積み上げていき、あたかも決断をしたかのよう錯覚をしているのである。>たが、振り返ってみると何も決めていない。

 

きっと我々は、既成事実の追認に追われた生活をしているのでしょうね。

 

>少なくとも、自分の意志、意識の上では決断をしていない。

 

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。考えは、非現実の内容である。非現実の内容は、時制のある文章になる。日本語には、時制というものが無い。日本人には考え (非現実) というものがない。だから、大人になっても無哲学・能天気のままでいる。

 

>だから、責任もない。

 

自己の意思を表明すると、当事者・関係者になる。表明しなければ、傍観者にとどまる。声なき我々は孤高の人か。

死刑執行人は、人は死んでも殺人罪に問われない。彼らには、殺意が無いからである。だから、彼らには罪が無い。

同様な理由で、日本人には罪が無い。日本人には、意思が無いからである。日本人の行動を規制するのは、恥である。恥は、序列順位の下位にあることである。恥を雪ぐ為に、日本人の行動が決まる。

 

>責任がないというより、責任をとれない。

 

意思のない人には、責任が無い。意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思が無ければ、仕方がないので諦める。無為無策でいる。

説明責任は、意思の内容の提示である。意思が無ければ、その内容も存在しない。だから、説明責任は果たせない。とかく、この世は無責任。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。

日本人には、意思が無くても恣意 (私意・我がまま・身勝手) が有る。だが、恣意は、意思と違って文章にならない。バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままである。文章にならないので、意味もなければ矛盾も指摘できない。頭には上らずに、ただ、腹の底にたまっている。’おめえらに、俺の腹の底が読めてたまるか’ という。高文脈文化 (high context culture) の産物である。だから、国際間の意思疎通も考えられない。

 

>自分に責任がないと思うから、人の所為にする。

 

だから、恨み・つらみ を口にする。浪花節調であることが、皆に喜ばれている。

 

>人の所為にするから反省もしない。

 

意思のある人間には、加害者意識が有る。加害者意識は罪の意識にもなる。罪の意識は、深刻な反省を伴うことがある。だから、加害者は以後の行動を変えることになる。それで、学習したことになる。

 

>これは、何も学んでいないのと同じである。>決断できない者は、何も学べないのである。>優柔不断で、煮え切らない者は、何も学べない。

 

そうですね。優柔不断・意志薄弱な民族であっては、どうにもなりませんね。

 

>学ぶためには、決断力を養わなければならないのである。>この様な決断力は、教科書からは学べないのである。

 

そうですね。意思のない日本人には、意思決定ができない。だから、意思決定の替わりに恣意決定をする。恣意の強化法として、意地・根性・大和魂を鍛える。これを精神主義と呼んでいる。そして、無謀に走る。言い訳はできない。

 

>しかも、学ぶためには、追いつめられてする決断ではなく、前向きな決断が重要なのである。

 

そうですね。能動的な行動の決断が重要ですね。それには意思が必要ですね。日本人には、意思が無い。だが、英米人には意思がある。だから、我々には、英米流の高等教育が必要です。

 

>決断しなければならない環境や状況だから決断すると言った受け身の決断では、主体的な意志の力が働かない。

 

受け身の姿勢が恣意決定の要因になっていますね。おとなしくしていることが出来ない。

 

>それは、決断するのではなく、決断させられたのである。

 

能動の決断ではなくて、受動の決断ですね。’止むに已まれぬ大和魂’ かな。

 

>主体的な意志の力が働かない限り、責任感もわかない。

 

そうですね。意思が無ければ、責任感もない。とかく、この世は無責任。

 

>それでは何も学べないのである。

 

そうですね。だから、自主性が必要ですね。

(略)

 

 

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閲覧数492 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/03/28 11:24
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