>落合陽一「日本再興戦略」より引用。 >=========== >結論から言えば、語学は出来たほうがいいに決まっています。>特に英語のスピーチをするなら英語が流暢にできると有利です。>英語の幼児教育も、やらないよりやったほうがいいでしょう、LとRの発音は絶対音感みたいなものですので、幼少期に身に付かなかったら、ずっと身に付きません。
そうですね。残念ながら、私もずっと身に付かない口です。
>しかし、今後は日常生活に関しては、自動翻訳技術が飛躍的に向上していますので、ロジカルに話せるだけで十分だと思います。>今、語学がコンプレックスなっている人たちも劣等感を感じずにコミュニケーションが取れるようになります。
そんな時代が早く来ると良いのですがね。
>一方、英語が話せる「中身の薄い人」の化けの皮がはがれてしまうかもしれません。>これまで以上に、中身が大事になってくるのです。
そうですね。英米人でも、高等教育を受けていない人が大勢いますからね。
>よく考えて、意味が分かる言葉でしゃべることは、英語を勉強することよりも重要に成ります。
はたして、そのようになるものでしょかね。
>話し言葉にしろ、書き言葉にしろ、機械翻訳がちゃんとできるように、伝わりやすい表現を心がける必要があります。(中略)
それは、そうですね。
>日本語にはよい動詞、よい表現がそろっています。
私には、これは意味不明ですね。
>ちゃんとした日本語が書ける人は、英語もちゃんと書けるものです。
そうであると良いのですがね。 全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。 意思は、未来時制の文章内容であります。日本語文法には、時制 (tense) というものがないので、日本人には、意思 (will) がありません。ですから、優柔不断・意志薄弱に見えます。 日本人には、意思は無いが、恣意 (self-will) が有ります。恣意 (私意・我がまま・身勝手) は、意思と違って文章にはなりません。バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のまま、存在します。恣意には、意味もなければ、矛盾を指摘することもできません。聞き手は、忖度 (推察) によって、現実対応をします。忖度は、聞き手個人の勝手な解釈でありますから、発言者には、責任が有りません。とかく、この世は無責任であります。 司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言でない文章の重要性を強調しています。 「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
>だから、英語を苦労して習得するよりも、ちゃんとした日本語の文を書けるようになったほうがいいでしょう。
日本語を介すことなく英語を学ぶと、その高等教育において正しい考え方を身につけることができるのではないでしょうか。There is no royal road to learning.
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