2018年05月16日(水) 

 

 

 

>受験生のみなさんへ。>こんにちは。内田樹です。この春受験を終えられた皆さんと、これから受験される皆さんに年長者として一言申し上げる機会を頂きました。>これを奇貨として、他の人があまり言いそうもないことを書いておきたいと思います。

 

それは、大切なことですね。

 

>それは日本の大学の現状についてです。>いま日本の大学は非常に劣悪な教育研究環境にあります。>僕が知る限りでは、過去数十年で最悪と申し上げてよいと思います。

 

そうでしょうね。だから、外国人の留学生も日本には寄り付かないのですね。

 

>見た目は立派です。>僕が大学生だった頃に比べたら、校舎ははるかにきれいだし、教室にはエアコンも装備されているし、トイレはシャワー付きだし、コンピュータだって並んでいる。

 

見栄と外聞の話ですね。

 

>でも、そこで研究教育に携わっている人たちの顔色は冴えません。>それは「日本の大学は落ち目だ」という実感が大学人の間には無言のうちに広く深く行き渡っているからです。>日本のメディアはこの話をしたがりません。

 

日本人は、落ち目の話はしたがりませんね。それは、縁起が悪いからです。気分・雰囲気の問題ですね。

 

>ですから、はっきりとデータを突き付けて「日本の大学が落ち目」だという事実を知らせてくれたのは海外メディアでした。

 

根拠なく意見を述べても信頼されませんからね。事実の公開は必要です。

 

>「日本の学校教育はどうしてこれほど質が悪いのか?」という身もふたもない特集記事を最初に掲げたのは米国の政治外交専門誌であるForeign Affairs Magazine の2016年10月号でした。

 

正直に話すのは、良いことですね。

 

>その記事は日本の大学の学術的発信力の低下の現実を人口当たり論文数の減少(減少しているのは先進国の中で日本だけです)や、GDPに占める大学教育への支出(OECD内でほぼつねに最下位)や、研究の国際的評価の低下などをデータに基づいて記述した上で、日本の大学教育の過去30年間の試みは「全面的な失敗」だったと結論づけました。

 

彼らの発言は、信頼できますね。

 

>記事は日本の大学に著しく欠けているものとして「批評的思考」「イノベーション」「グローバルマインド」を挙げていました。>批評的思考や創造性を育てる手立てが日本の学校教育には欠けていることはみなさんも実感していると思います。

 

そうですね。

 

>けれども、「グローバルマインド」が欠けていると言われると少しは驚くのではないでしょうか。

 

日本人には、世界観がありませんからね。自分の目の届く範囲しか想定されていません。未知の世界への探究心はありません。日本人の考え方では、見えないものは存在しないものと考えられています。

 

>なにしろ1989年の学習指導要領以来、日本の中学高校では「とにかく英語が話せるようにする」ということを最優先課題に掲げて「改革病」と揶揄されるほど次々とプログラムを変えては「グローバル人材育成」に励んできたはずだからです。

 

意味の通じない文章であっても、英訳すれば相手に理解されると考えている人もいるのではないでしょうか。翻訳者が、頭を抱えています。

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>の中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。

 

“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。

ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)

 

>でも、30年にわたるこの努力の結果、日本人は「世界各地の人々とともに協働する意欲、探求心、学ぶことへの謙虚さ」(記事によれば、これが「グローバルマインド」の定義だそうです)を欠いているという厳しい評価を受けることになってしまった。

 

島国根性の表れですかね。

 

>問題は英語が話せるかどうかといった技能レベルのことではありません(ついでに申し上げておきますけれど、過去30年で英語力も著しく低下しました。現在、大学入学者の多くが英語をまともに読めず、書けないために、大学では中学レベルの文法基礎の補習を余儀なくされています)。

 

バラバラ単語 (小言・片言・独り言) を発して、忖度 (推察) で受ける我が国の言語環境で育てられた日本人は、文法学校 (grammar school) の伝統ある西洋の民族の言語を習得するのが難しいでしょうね。文法軽視の祟りでしょうね。

 

>日本の学生に際立って欠けているのは、一言で言えば、自分と価値観も行動規範も違う「他者」と対面した時に、敬意と好奇心をもって接し、困難なコミュニケーションを立ち上げる意欲と能力だということです。

 

‘上と見るか、下と見るか’ の世俗的序列判断では、他者に対する敬意と好奇心などは湧きませんね。自分と価値観も行動規範も違う他者は、どこの馬の骨とも知れない無価値な存在です。日本人は、孤高の人です。

 

>しかし、生きてゆく上できわめて有用かつ必須であるそのような意欲と能力を育てることは日本の学校教育においては優先的な課題ではありませんでした。

 

それは我が国の実社会に対する処世術ですね。

 

>学校で子どもたちが身につけたのは、自分と価値観も行動規範もそっくりな同類たちと限られた資源を奪い合うゼロサムゲームを戦うこと、労せずしてコミュニケーションできる「身内」と自分たちだけに通じるジャルゴンで話し、意思疎通が面倒な人間は仲間から排除すること、それを学校は(勧奨したとは言わないまでも)黙許してきました。

 

内輪で固まると、非国民と外人しか生産されませんね。

 

>でも、その長年の「努力」の結果、「あなたたちはグローバルマインドがない」という否定的な評価を海外から下されてしまった。

 

日本人の心得違いというものでしょう。

 

>学校生活を無難に送るために採用した生存戦略がみなさん自身の国際社会における評価を傷つけることになったわけです。

 

そうですね。学校生活は現実の内容ですね。国際社会は非現実の内容ですね。両者が同じになるわけがありません。

 

>たいへんに気の毒なことですし、長く教育にかかわった者としては「申し訳ない」と叩頭するしかありません。>僕自身はそういう学校教育のありように一貫して批判的でしたけれど(どちらかというと「排除される側」の人間でしたから)、力及ばず学校教育の空洞化を止めることができなかった。>それについては責任を感じています(だから、こういう文章を書いているのです)。

 

反省が十分でないと過ちを繰り返しますね。一人ひとりが名案を出してみると良いでしょう。

 

 

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閲覧数18 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/05/16 21:24
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