2018年05月30日(水) 

 

 

>日本は死滅するのか──生物学者の「予言」>5月19日付朝日新聞朝刊に生物学者・福岡伸一さん(青山学院大学教授)のインタビューが載りました。>昨今の官僚機構の度重なる不祥事を通して、日本の未来に警鐘を鳴らす内容となっており、しかもイデオロギー的なバイアスの少ない生物学者の視点からだけに、戦慄すら覚えました。

 

そうですね。とかく、この世は無責任ですからね。警鐘などは、何のその。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。つまり、まじめな反省がないのです。

 

>福岡さんは、セクハラ問題で辞職した福田淳一財務事務次官が東大を卒業した1982年に京大を卒業しています。>それもあって、福田淳一氏が財務次官に就任したとき、小学校以来の長い秀才レースの末、出世競争の「上がり」のポジションに着き、自分たちの世代も人生の秋を迎えたという「不思議な感慨」を覚えたと言います。

 

そうでしょうね。福田散って、天下の秋を知る。ああ、むなしい。

 

>そして、今年になって前国税庁長官の佐川宣寿氏を含む財務省の「花の82年組」が瓦解していく姿を前に、思いを新たにします。

 

そうですね。夢が覚めたか。泰平の眠りを続けるか。

 

>(前略)受験秀才が最後まで競うこのシステムには優秀な人の選抜という良い点の一方、悪い点がある、と思い至りました。

 

そうですね。馬車馬には、悪い点もありますね。

 

>それは、システムの限定性です。>競争相手は同年齢・同学年だけで、勉強の範囲も決まっています。>おのずと効率や要領、暗記や処理能力の高さだけが評価されます。

 

そうですね。序列競争は、同次元の序列でない公平性に欠けますからね。そうでなければ、人が信用しませんね。

 

>これはクローンで自分を複製し、子供をつくっていくアリマキという昆虫や、タネがなく単一品種の株分けで増殖するバナナに似ています。>その特徴は、環境が一定ならば、極めて順調に自分を複製して生育しますが、環境の変化や感染症で、一気に死滅してしまうことです。

 

千変万化する自然界では、純粋培養は生存が難しいですね。

 

>日本は右肩上がりだった時代が終わり、下降的で失うものが多い時代を迎えています。

 

そうですね。技術改良だけでは、産業が持ちませんね。なにしろ、人手不足があって、頭脳不足のない国ですからね。天下の秀才は、一杯います。

 

>官僚の人事も、役所が自分たちで決めるものから、政治が恣意(しい)的に決める時代になりました。

 

日本人は意思がない。だから、政治家も恣意 (私意・わがまま・身勝手) 的になる。どうしようもないですね。さらなる日本語の勉強も必要ですね。

 

>つまり外部環境が激変してしまったのです。

 

そうですね。政治家が、主導権を握りましたね。民主主義に近くなりましたね。

 

>生物には変化に備えたメカニズムが備わっています。>アリマキは秋になるとクローン増殖をやめてオスを生み出し、有性生殖を行うのです。

 

そうですね。環境が危険な状態に変化したら、有性生殖で種族を守るに越したことはありませんね。

 

>ですが、自らの無謬(むびゅう)性を誇る財務省にはそうしたメカニズムが見当たらない。>『死滅』しかねない状況です。

 

ローマ法王にでもなった気持ちでいたのでしょう。裸の王様ですね。一寸法師の夢かな。

 

>同時に、今回のエリート組の瓦解の遠因に、私を含めたこの世代特有の弱さの存在を感じます。

 

思考停止の ‘ひ弱な花’ ですね。

 

>60年代の政治の季節に遅れ、70年代には学校のサヨク的な先生の授業に白けつつ、80年代に入るとポストモダン的自由を謳歌(おうか)し、時代の先端を走っているつもりでした。

 

井の中の蛙たちの夢ですね。

 

>ところが、結局、戦後民主主義の精神を次の世代にうまく継承できず、子どもたちに伝える成熟した文化も、つくり得なかったのです。(後略)

 

そうですね。無哲学・能天気では、それは無理でしょうね。

 

>詰まるところ、このまま進めば日本は滅びるしかないということです。

 

そういうことになりますか。 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

 

(略)

 

 

.

 

 

 

 

 


閲覧数564 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/05/30 20:48
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