2018年06月10日(日) 

 

 

 

>集団の中にいるとどうしても周りの動きが気になる、周りの判断が正だと捉えてしまう。

 

‘あるべき姿’ の内容が、’正’ ですね。’あるべき姿’ の内容は、’考え’ の内容である。’考え’ の内容は、’非現実’ の内容ですね。’非現実’ の内容は、頭の中にある。’現実’ の内容は、頭の外にある。’現実’ の内容は ’本当’ のことであり、’正’ である。’非現実’ の内容は ‘嘘’ であり、’誤り’ である。だから、日本人には、’あるべき姿’ の内容を ‘正’ と考えることが難しい。

 

>集団の中にいて大事なのは、当事者意識をもって行動することだと思う。

 

自己の意思を示せば、当事者・関係者になる。自己の意思を示さなければ、傍観者にとどまる。

日本人には、意思 (will) がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがない。だから、未来時制もなく、日本人には意思がない。優柔不断・意志薄弱に見える。

意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人には意思がないので、方法がない。仕方がないので、無為無策でいる。これでは、当事者として行動できない。

 

>周りに合わすことは自分事と捉えず、他人に責任転換してしまっているだけである。

 

そうですね。

意思のある人には、責任がある。意思のある人たちは、加害者意識を感ずることもしばしばである。罪の意識を感ずれば、その行為は刑事裁判にかけられる。

意思のない人には、責任もない。ちょうど、死刑執行人のようなものである。人は死んでも、彼らは殺人罪には問われない。彼らには、殺意というものがないからである。

自由とは、意思の自由のことである。意思のない人には、自由にも意味がない。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ である。

意思がなくても、恣意 (私意・わがまま・身勝手) がある。意思は文章になるが、恣意は文章にならない。ばらばらな単語 (片言・小言・独り言) のままでいる。意味もなければ、矛盾も指摘できない。議論にもならず、捨てられる。

 

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。

文章がなければ、その内容の理解は不可能である。英語のような低文脈文化の言語では、伝達される情報は言葉の中で全て提示される。だから、考えに対する議論も可能になる。

しかしながら、日本人は片言隻句をとらえて、意味のない事柄を忖度 (推察) する。歌詠みのようなものか。忖度は、聞き手の勝手な解釈であるから、話者には責任がない。だから、日本語会話の議論では、’言った・言わない’ の論争はなじまない。日本語のような高文脈文化の言語では、言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する。重要な情報でも言葉に表現されないことがある。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻語でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

 

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閲覧数72 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/06/10 22:27
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