2018年06月26日(火) 

 

 

 

 

>新聞・テレビの医療フェイクニュースで重要なのは、積極的にメディアに出てデマを流すカギかっこ付き「専門家」の存在である。

 

そうですね。イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

 

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

 

>新聞やテレビの記者は、大学教授、学会長、医師といった人の話を、内容を科学的に評価することなく肩書きだけで取り上げてしまう。

 

肩書は、序列社会においては価値そのものを示すのでしょうね。

日本語では、現実の内容は ‘本当のこと’。非現実 (考え) の内容は、’嘘’である。本当のことを書き連ねるのであれば、問題ないと記者は思っているのでしょうね。

評価の方は考えの内容であり、内容が不安定である。つまり、個人によりまちまちである。だから、この方面の内容は記者に敬遠されているのでしょうね。

 

>いや、これは少々メディアに酷な言い方で、アカデミアでは誰にも相手にされていないような、カギかっこ付きの「専門家」が、記者や一般市民との圧倒的な知識や経験の格差を利用して、新聞・テレビで医療デマを流している。>標準医療や科学を否定する「専門家」によるセンセーショナルな主張は人気がある。

 

論客は、’ああでもなければ・こうでもない’ と言っている。’あれではいけない・これではだめだ’ と力説する。だが、自分はどうであるかを言わない。自分には、考えというものがないからである。にもかかわらず、論客は多弁である。無哲学・能天気であるにも関わらず、仮らは受け売りの専門家になっているからである。材料は、豊富である。この材料が不毛な議論の ‘生みの親’ になっているのか。彼らには、自己表現がない。だから、個人対個人の議論にはならない。’、、、、では’ 、‘、、、、では’ と現実を羅刹する。これを ‘出羽の守’  (でわのかみ) と皮肉る人もいる。思考停止になっているので、自分自身の考え (非現実) がない。これが、多弁の種である。わが国の詰め込み教育の成果であるか。自己の考えがないので、詰め込み教育が行われるのか。詰め込み教育に忙しくて、自己の考えがなくなってしまうのか。

 

>そのため、記者たちは仮に胡散臭さを感じることがあっても報じたいという誘惑に勝てない。>テレビ局に勤める私の友人も、「専門家」に話をさせたらインターネットで炎上したのを見て、「話題になってよかった」と喜んでいた。>「専門家」たちは一般に話術に長けてもいる。

 

彼らは、一種の噺家なのでしょうね。これもわが国の伝統芸能か。学問ではない。自己の発想といえば、日本人の場合は、歌詠みになる。論理に集中しない。論理は、文章で表現される。だが、日本人には文法は敬遠されている。歌詠みは、気分・雰囲気であるから、文章ではなく、ばらばらな単語で表現される。一億総歌詠みになる。

 

>患者目線、患者思いといえば聞こえがいいが、患者が安易に共感してくれそうな話を、患者の信頼を得るようなしゃべり方で伝えることができる。>回復の見込みのない患者に、「主治医にもらっている薬のせいでしょう」という。>治療費で経済的に困窮している患者には、「必要のない薬を飲まされていますね」という。>科学的根拠のいかんにかかわらず「別のお医者さんがいっている」となれば、患者が共感してしまうのも無理もない。>これを取り上げるメディアのほうも、「XX大学教授によれば」「XX医師はこういった」といった引用の形をとるかぎり、誤報やフェイクニュースではないからと、訂正報道はしない。

 

にもかかわらず、わが国の科学論文の発表数は、伸び悩んでいるようですね。わが国は、今、人手不足で悩んでいる。だが、頭脳不足の話は聞いたことがない。天下の秀才なら、世の中にいっぱいいる。異常現象でしょうね。

 

>たとえ、いっていることの中身は、患者の弱みにつけこんだデマだと気付いたとしても。>まともな人たちは、レベルの低い「専門家」やメディアは放っておけばいいと思うかもしれないが、このことが「専門家」がデマを流すチャンスを増やし、アカデミアを代表する意見であるかのように社会に定着させる原因となっている。

 

自己主張がなければ、実りある議論はできない。個人主義のない国では、個人の考え (非現実) の内容が学問にならない。議論のないアカデミアは、むなしい。

 

>「専門家」を引用して新聞・テレビの流すデマゴギー――。>皮肉なことに、このような「オーソライズされたデマ」も、「フェイクニュース」という言葉で語られることが多い。

>そして私はこちらの「報道機関にニュースとしてオーソライズされた誤ったメッセージ」という意味でのフェイクニュース、という用語の使い方のほうが、正確であると感じる。 

 

評論家も、コメンテイターも、受け売りの専門家である。自己がない。自己表現に欠けている。自己主張がないので、あくまでも他人事になる。無哲学・能天気の人たちは、浅はかである。浅薄な感じがする人たちである。奥がない。これが、わが国の文化の印象と似ている。

 

 

 

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閲覧数57 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/06/26 07:06
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