2018年07月01日(日) 

 

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。

文章には意味がある。文章にならないものには、意味がない。

文章の意味は、読む人に理解される。文章にならないものは、理解されることはない。

 

ところが、わが国においては、文章にならないものが、忖度 (推測) により相手に勝手に解釈されている。

忖度が、勝手な解釈であることを当人に知らせると、彼は ‘だって、本当に私はそう思ったのだから、仕方がないではないか’ と弁解する。彼は、自己の想いに没頭しているのである。これは、相手無視であって情報伝達の破綻である。相手との議論などできる余地のない言語環境になっている。忖度の達人たちは、議論下手である。日本語の弱点は、そのまま議員たちの痛手ともなっている。文章とその内容の理解が間違いなく行われる英米のような低文脈文化の国では見られない現象である。

バラバラな単語を多用するわが国の言語環境においては、文章を組み立てるための文法の価値は相対的に低い。文章の理解を目的にする国にとっては、文法学校 (grammar school) の必要性は昔から知られている。司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、ばらばらな単語でない文章の重要性を強調しています。

 

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

生真面目な日本人が、文章の理解をかなぐり捨てて、その場の気分・雰囲気に酔うさまは、西洋人にも日本人にも不可解である。だから、空気の研究が必要になる。山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。

 

「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。

 

日本人が文法を軽視することと、文章が書けないことには深い関係がある。ばらばらな単語を題材にして、忖度に余念のない生活を送っているからである。単語は、この場合は意味のない非言語として扱われているので、文字で表現される必要もない。鐘の音・虫の声でも可能である。文章が度外視されているので、意味・意義 (meaning) がない。哲学構成できない。学問にならない。

日本人の判断によれば、現実の内容は ‘本当のこと’ である。非現実の内容は ‘嘘’ である。

恐竜時代には、人は誰もこの地球上に住んではいなかった。にもかかわらず、現代の古生物学者は、恐竜の生態を事細かに述べている。だから、彼らは、見てきたような嘘をついているのである。彼の言動は、許されてよいのか。それとも、この現象も時代の進歩と考えることができるのか。フランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、日本語と英語の違いについて、次のように述べています。

 

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じ込められていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味を持つ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず論理的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行なわせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には ”to be” にあたる適当な動詞がない。“being” とか “reality” のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。(引用終り)

 

わが国の論客は、’ああでもなければ・こうでもない’ と言っている。’あれではいけない・これではだめだ’ とも力説する。しかし、自分がどうであるかを述べていない。自分には、考え (非現実) というものがないからである。にもかかわらず、彼らは依然として多弁である。その理由は、彼らが ‘受け売り’ の専門家になっているからである。自己の思考を停止して暗記力にものを言わせている。これが、評論家・コメンテータたちの生態である。わが国の教育方針の成果でもあろう。イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

 

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

 

日本人には意思がない。意思のない人間には、責任がない。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。日本人は、死刑執行人の立場に立っているようなものである。人は死んでも、彼らは殺人罪に問われない。彼らには、殺意というものがないからである。意思のない人は、優柔不断・意志薄弱に見える。意思のあるところには、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思のない人は、仕方がないので無為無策でいる。それが、無能というものである。

意思は、未来時制の文章内容である。日本語には、時制というものがないので、未来時制もない。したがって、日本人には意思がない。だが、英語には時制があり、英米人には意思がある。我々も、英米流の高等教育を英語で受ければ、意思決定が容易になる。さすれば、現在の困難を克服できるに違いない。 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

 

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

 

英米人は、日本語を話していても、日本人特有の困難には嵌まり込まない。だから、我々日本人も英語・日本語の二刀流で教育を受ければ、国際社会に活躍できると考えられる。

 

 

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閲覧数59 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/07/01 03:32
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