>村田隆和・論説委員>弱者犠牲になる構図
(略) >政治は最高の道徳である。>これは福田赳夫元首相が「金権政治」を批判する際などに好んで使った格言だ。
政治は俗世の最高権威ですね。最低の内容でしょうね。刑務所の壁の上に立って、その外側に落ちるか、内側に落ちるかの判定をするのですね。
>民主主義国家においては国民の代表が政治を執り行う。>過去を振り返れば汚職や不祥事の事例に事欠かないが、それも社会を映す鏡と言えよう。
民の声を反映していますね。
>だからこそ、政治が道徳の範を社会に示すべきだという戒めでもある。
そうなると良いですね。
>だが今、国民が目の当たりにしているのは政治道徳の堕落だ。
日本人は、無哲学・能天気であるから、政治哲学もない。哲学は ‘あるべき姿’ であり非現実の内容であるが、処世術の方は ‘人様並み’ の内容であり現実の内容である。だから、無哲学・能天気の民には、現実の堕落が止められない。このような次第で、政治は堕落する。
>森友問題では文書の改ざんを指示された近畿財務局から自殺者も出ているのに、誰も政治責任を取らない。
とかく、この世は無責任。この国がひっくりかえった時にも責任者は出なかった。
>権力者を守るために国民の代表たる国会にウソをついた官僚たちは出世するか、軽い処分で済まされ、国民軽視の風潮がさらに増幅されていく。
処世術・世渡りの問題が全てですね。哲学がない。教養がない。この世はまさに忖度 (推察) の時代です。
>いじめ自殺の調査隠蔽(いんぺい)を学校に指示した教育委員会、データ改ざんを組織的に続けた企業、職員からセクハラの告発を受けても否定した市長--。道徳の崩れた陰湿な社会の兆候には事欠かない。
そうですね。現実に対して右に倣えですからね。
>閉鎖的な組織の上下関係に縛られがちな日本型タテ社会の病巣として論じることもできよう。
そうですね。日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。 日本語を話すときは、’上とみるか、下とみるか’ の判断は欠かせない。 ‘人を見損なってはいけない’ との思いが強迫観念になっていて、ともすれば、理性判断は失われがちである。 上下判断がすべてになるので、上意下達ですべてが決まる。
日本人には意思がない。意思のない人には、責任もない。 加害者意識もないから、罪の意識もない。こういう人たちの仕事は恐ろしい。制動なしで突っ走る。 意思はないが、恣意がある。だから、上意は上位の者の意思ではなくて、恣意である。 意思は文章になるが、恣意は文章にはならない。 全ての考えは文章になる。文章にならないものは、考えではない。 意思は文章であるから意味があり、恣意は文章でないから意味がない。 恣意の責任者には、説明責任が取れない。だから、この世は無責任。
>権力者が道徳を壊し、弱者が犠牲になるような社会は息苦しい。
そうですね。恥の文化が泣いている。
>これが道徳教育を重視する現政権の目指す社会ではあるまい。
そうですね。言うは易くして、行うのは難しい。 日本人には、世界観 (非現実) がない。’来るべき世界’ を想定できない。だから、努力目標が設定でなくて息苦しい。 日本人にあるのは、伝統的な現実感 (世の中は、、、、、、、) ばかりである。希望の世界への抜け道はない。だから、閉塞感がある。 非現実の世界には、過去・現在・未来の三世界がある。文法の時制を使うと、これらの三世界は文章になる。内容の表現が可能になる。だから、非現実の世界は考察の対象になる。 英語には時制はあるが、日本語にはない。だから、日本人には現実感ばかりがある。 非現実の世界は、考えの世界である。だから、時制を活用することによって、人は ‘考える人’ になる。考えることのできない人は、考えに行き詰まる。 考えることのできない人は、道徳教育として徳目の暗記をすることしか考えられない。これは ‘ご唱和の世界’ の実現であって、’個人の夢’ の実現にはならない。だから、努力の果てにも夢も希望もない。逃げ場のないこの危機を打開するには、我々日本人に日本語と英語の二刀流の教育をすることが必要である。
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