(略) >「アクティブ・ラーニング」と野党ぎらい >野党があまりに「だらしない」から、野党の支持が低迷しているという説明が見落としていることがある。>野党という存在やそれがそうせざるをえない振舞い方が嫌われているので、野党が何を言っても、何をしても嘲笑されるという連関である。
野党は、庶民の同情が得られないのですね。
>そしてこの「野党ぎらい」はコミュニケーションを過剰に重視する風潮と無関係ではない。>「コミュ力」が高いとされるのは「野党」にならないように振舞うことができる人のことであり、会話の中で地雷を踏むことにビクビクしている人は「野党」の役回りに追い込まれることを全力で避けようとする。
野党にならないように、草木もなびくということでね。
>近年、教員の一方的な知識提供ではなく、学生の主体的な学びを重視する「アクティブ・ラーニング」が広がっている。>基本的には肯定的に捉えてよいだろう。
そうですね。我々は、主体的に学習する必要がありますね。
>しかし、ここで行われるグループ・ワークは、メンバーの顔色、そしてその後ろにいる教員の顔色をうかがうことを強いる同調的なコミュニケーションを促進しているのではないかと思うこともある。
あたりの空気を読む練習ですか。忖度 (推察) は、歌詠みの始まりですね。現実離れは、避けられませんね。
>政党政治のロジックは、皆で仲良く建設的に「会話」することと同じではない。
そうですね。考えの内容は、一人一人で違っていますからね。それぞれの人が建設的です。
>現在の「政治教育」では、「野党」の意義はむしろますます見えにくくなる。
没個性的ですからね。意見なしで野党は見えませんね。
>政治家の感覚が庶民感覚からズレていることを問題にすることも、ときには大切である。
そうですね。日本人には、意思がなくて・恣意 (私意・わがまま・身勝手) がある。だから、政治家に対する注意は必要ですね。
>しかし政治を身近なことに引きつけて「わかりやすく」論じようとするがあまり、自分たちのコミュニケーション・スタイルの基準でしか政治を論じられなくなっているとすれば、それも政党政治を閉塞させる。
そうですね。日本人には世界観 (非現実) がないから、’あるべき姿’ の世界 (非現実) を政治で論ずることは難しいでしょうね。非現実の内容は論ずることができない。非現実の内容は聞いても理解できない。
>「コミュ力」が賞賛される世界では、野党が野党であることで評価してもらえる可能性はない。
一人一人に哲学が必要ですね。Everyone needs a philosophy. 哲学 (非現実) があれば、時流に流されない。現有の処世術 (現実) に頼れば、時流に流される。だから、哲学の勉強は必要です。 ‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
>違いや軋轢を避けたり、笑いにしたりするのではなく、その対抗性をそれなりに真面目に引き受けること。
そうですね。非現実の内容を持たない人には、考えに奥がない。浅薄である。だから、真面目な議論はできない。
>相手の批判に腹を立てても、それなりにそれと向き合うこと。
感情を理性で抑える訓練が議論には必要ですね。
>こうした可能性の乏しいコミュニケーションは同調過剰になり、表層的になり、深まらず、退屈で、そして疲れる。
大政翼賛会になるのか。この道は、いつか来た道。没個性の禍は、どこまでも我々を追いかけてくる。
>いまの政局の行詰まり感は、「コミュ力」のユートピアが政党政治の世界に投影された結果の成れの果てではないか。
考えは、個人個人で違っている。没個性の世の中では、この個人主義の前提が成り立っていない。だから、欧米社会の猿真似も成功しない。
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