2018年07月14日(土) 

 

 

 

 

>■「対話」の前提条件

 

>古代ギリシャ人は、人間を「ロゴスを持つ動物」と定義した。>このロゴス(logos)という言葉は、「拾い集める」という意味のlegeinという動詞に由来したもので、「バラバラに散らばった事柄を、一定の秩序や筋目に従って取りまとめる」という意味だ。>よって、理由、原因、説明、法則、秩序、意味、根拠、理性といったニュアンスを含み、今日では「言葉」と訳すことが多い。>このロゴスを〈通じて〉やり取りすることがdia-logos、すなわち「対話(dialog(ue))」だ。>2人の人間が向き合って話せば「会話」にはなるが、「対話」はそれだけでは成立しない。

 

 

 

対話には、対話術が必要ですね。

 

 

 

>「対話」は、次の4つの前提条件が満たされていなければならない。>(1)相手を「他者」として見ること >(2)その「他者」である相手のことを、知りたいと思っていること >(3)「対話」によって、互いが変化することを目標としていること >(4)自分と相手との関係に、上下関係を持ち込まないこと

 

 

 

上の4つの前提条件は、言うは易くして、行うのは難しいでしょうね。

 

 

 

>前提(1)は、私たちが最もつまずきやすいものだ。>ここで「他人」ではなく「他者」という言葉を用いたのは、相手が「未知な存在である」というニュアンスを強調するためだ。

 

>われわれには、つい自分の延長線上で相手を捉えてしまう傾向があって、自分にとって当たり前のことは相手にとっても当たり前に違いない、と思い込んでいることが多い。>そのため、会話の中で誤解が生じる可能性を軽んじているところがある。>しかし、一人一人が言葉に込めているものには微妙な違いがあって、通り一遍の言葉のすり合わせだけでは、大ざっぱな意思疎通しかできないのだ。

 

 

 

そうですね。’なーなー主義’ ではいけませんね。日本人には意思がないので、意思疎通はなくて恣意疎通がある。恣意は、文章にならない。意味もない。だから、恣意疎通は ‘なーなー主義’ になる。

 

 

 

>前提(2)は、「他者」への関心の問題だ。>自分の感覚や価値観だけで満足し、これを相対化できないような場合には、「他者」への関心は生じない。>自身を相対化できないと、そもそも「他者」がいるという認識を持つことができず、話を聴きたいとも思わない。>つまり、「対話」を求める発想が生じないのだ。

 

 

 

そうですね。無哲学・能天気の民には、他者への関心はありませんね。考えの内容は、個人個人で違っている。しかし、考えがなければ個人主義もない。

 

 

 

>前提(3)は、変化を受け入れる柔軟性の問題だ。>「対話」をしようと思う動機は、もしかすると自分の感覚や価値観が、偏狭で未熟なものかもしれないという知的な謙虚さと、未知なるものに触れて自分の世界を豊かにしようとする好奇心や向上心だ。

 

 

 

日本人は、序列順位に対する向上心はあっても、変化を受け入れる柔軟性はないでしょうね。自己の信念は固く、曲げてはならないものと信じているのです。それにもかかわらず、日本人は、外国人から信頼を得ていない。

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

 

 

 

>前提(4)は、「上下関係で人間関係を捉えない」という基本的人間観の問題だ。>自分のことを「上」と思っている人間は、よほどのことがない限り「下」の人間の意見や感想を聴く必要を感じない。>「タテ社会」的な人間観を持つ人は、「対話」のような開かれたコミュニケーションを歓迎しないだろうし、もし「下」の者が率直な意見など言おうものなら、「無礼だ」「生意気だ」「分をわきまえろ」などと言って憤慨するかもしれない。

 

 

 

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。だから、日本人の対話には、上下関係は常に付いて廻っている。かくして、我々の礼儀作法は序列判断の表れである。人を見損なうようなことがあっては、礼儀正しい日本人にはなれない。イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。

 

 

 

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリヤーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)

 

 

 

それぞれの前提 (1)-(4) には、日本語特有のそれぞれの困難が存在します。①恣意疎通・②無哲学・③信念 (思い込み)・④階称など、どれをとっても日本語によるlogos改善には難題となるようです。ですから、いっそのこと、英語を使って英米流の高等教育を受けて、対話術を習得することが事態改善の早道でしょう。そうすれば、我々日本人も対話による恩恵に浴することができるようになります。わが国は、教育立国になる必要があります。

 

 

 

 

 

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閲覧数602 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/07/14 11:53
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