>■なおざりにされるロゴス >上に挙げた4条件で示した通り、相手を「他者」として尊重し、「他者」に対して自分の世界の窓を開け、双方の世界が交わることを望み、自分だけでは得られなかった経験を得ようとする「開かれた」態度が根本にあってこそ、「対話」は成り立つのだ。
そういうことになるようですね。
>人は幼い頃、自分しかいない自閉的状態から歩みを始める。>その後徐々に、「他者」は自分の言動をどう感じているのか、同じものについてもどのように違った見方をしているのかなどを知り、言葉や行為に込められた「意味」がどのようなものかを学んでいく。>そして「対話」の経験を積み重ねることによって人間観を成熟させ、社会性や公共性を獲得していく。
自己の世界観を形成することが大切ですね。
>このようにして、人は普遍的に通用するロゴスを獲得するのだ。
無哲学・能天気ではいられませんね。正確性を必要とする言語が必要ですね。
>しかし、昨今あちらこちらで見られる「不気味なるもの」には、そのように公共性のある「意味」を伴ったロゴスが欠如しているように思われるのだ。
バラバラな単語で生活していては、発言に意味はありませんね。 全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
>「約束はしたが、守るとは言ってない」といった理屈ならざる理屈ではぐらかし、不正の証拠がいくら提示されても「それは偽物だ」と否認し、虚偽答弁については「記録にない」「記憶にない」と言って責任を回避し続ける。 >さまざまなハラスメント事案においても、被害者の心情に視点を移すことをおざなりにし、「そんなつもりはなかった」と行為者の弁解が中心になってしまう。
彼らは、処世術 (現実) にたけていますね。軽薄な人間であることを遺憾なく発揮していますね。あるべき姿 (非現実) の世界など、念頭にないのでしょう。こうしたその日暮らしの生活態度でいては、人々は閉塞感にさいなまれますね。
(略) >■ロゴスを取り戻すために >ロゴスの公共性や普遍性を担保しているものは、「人間とはいかなる存在か」についての人々の共通認識だ。
‘我々は、どこから来たか’ ‘我々は、何者であるか’ ‘我々は、どこに行くのか’ の哲学的命題は、考えなくてはなりませんね。
>人間は、非自然原理の「頭」と自然原理の「心=身体」のハイブリッドだ(略)。>「頭」は理性の場所であるが、コンピューターのような働きなので、情報収集や情報処理を行うことまではできても、物事の「意味」を判断するような作業は、「心」が関与しなければできない。
そうでしょうね。勘定と感情の結びつきですね。
>物事の秩序や原理を抽出する作業も、「心」の働きがあって初めて可能になる。>つまり、「心」の関与があってこそ、ロゴスは成立するのだ。
そういうことになりますね。心の働きで、ロゴスは有意義なものになりますね。
>また、「頭」は量的なものしか理解できないので、優劣や勝ち負け、損得などにこだわる傾向が強い。>さらに、「頭」は事物のコントロールや所有を強く志向するので、エゴイズムを生み出す場所でもある。>このような性質の「頭」が支配的になると、人は、金銭、地位、権力、名誉といった表面的な価値にのみ動機付けられてしまう。
世俗的 (現実) なものばかりですね。あるべき姿 (非現実) の内容が存在しませんね。
>そして、自分にしか関心を向けず、所有や支配に執着することになってしまう。
アニマルのようなものですね。とっぷりと現実の中につかって生きていますね。
>現代社会は、経済的に発展することを過度に重視し、結果主義、効率主義に傾斜したがゆえに、「頭」優位の価値観に大きな力を与えてしまった。
世界観 (非現実) が欠如していますね。遠い未来の我々の行き着き先が見えていない。我々の努力目標が設定されていないですね。
>その結果、社会はロゴス無き非情な人間を次々に生み出し、彼らを誤ってリスペクトし、権力さえも付与してしまったのではないか。>ロゴスの危機は、「心」の危機だ。
無哲学・能天気の人々の危機ですね。’民信なくば立たず’ です。
>この「不気味なる」事態がこれ以上横行しないように、われわれ一人一人が自身の「心」との「対話」を欠かさず、「他者」に開かれた「対話」を重ねていくことが大切だ。
日本人の無哲学が解消されないと、他者との意見交換も難しいでしょうね。
>そしてもう一度、より人間らしいロゴスの側に、力を取り戻す必要があるのだ。
高文脈文化の社会では、曖昧な言語 (日本語) の特性は解消されないでしょうね。ですから、低文脈文化の正確性が必要とされる言語 (英語) の特性を利用して、我々はロゴスの力を獲得し高めてゆくべきです。英米人は日本語を話しても、日本人のような未来のない世界には突入しないでしょうね。彼らは英語の考え方に逃げられるからです。しかし、彼らは優れた歌詠みにはなれないでしょう。日本人は英語を話しても、おそらく哲学博士 (Doctor of Philosophy: Ph. D.) にはなれないでしょう。近い未来においては、それぞれに限界があるように思います。
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