>「ここにしかないもの」を考えることから“東京の未来”は始まる:東京R不動産・林厚見
個性的な未来社会の建設ですか。
>■アトムとジブリのハイブリッド都市・東京 >─「WIRED CITY 2015」のテーマは「2020からはじまる東京」です。 >海外の街づくりも見てきた林さんにとって、東京や日本のいいところと悪いところはどんなところだと思いますか? >昔は東京には色気がないと考えていましたが、ヨーロッパのクリエーターたちが東京の街を面白がることが多いように、外から見るとそうでもないということが年を経るごとにわかってきました。>そしてやっぱり自分も、間違いなく東京が好きで東京を楽しんで生きています。
それは、良いことですね。
>この間、社会デザイン研究家の三浦展さんの本を読んでいたら、東京には「アトム」的風景と「ジブリ」的風景と、そのハイブリッドとしての「パンク」があると書いてあって、なるほどと思いました。>アトムというのはいわゆるタワーマンションが乱立したSF的な風景、ジブリというのは横丁や裏道のような風景です。>商店街の後ろに新しいタワーがあるといったハイブリッドな世界というのが、まさに東京や日本らしさであると。
そうですね。東京らしさ、日本らしさは、まさに混とんの中にありますね。考えがないところが、日本的な自由ですね。こうした自由は、英米人には通じないでしょうけれども。 自由は ‘考えの自由’ である。’考え’ そのものがなければ、自由にも意味がない。 現実の内容は、頭の外にある。非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。両者は所在が異なるので、内容も同じになることはない。 現実の内容は、見ることができる。現実の内容は本当のことである。 非現実 (考え) の内容、見ることができない。考えの内容は ‘嘘’ ということになる。ですから、考えの内容は、日本人の頭の中では発達しない。誰しも、嘘つきにはなりたくないからである。
>「豊かなカオス」のなかに「何でもある」といった新しい秩序が、これからの東京の価値としてもっと確立されていくと思います。
わが国には、何でもある。豊かなカオス (現実) の中に何でもある。だが、夢と希望だけがない。夢と希望の内容は、考え (非現実) の内容であり、日本人の頭の中では育たない。
>合理と非合理、新しいものと古いもの、不可解なものと伝統などが共存し、利便と風情がぶつかりあうなかで、リアルとヴァーチャルを行き来しながらいろんな場所や気分を選び取っていける街。
ちゃらんぽらんな街ですね。日本人には哲学ができない。だから、学問ができない。無理にこれを強行しようとすれば、その結果は空想・妄想となる。おかげさまで、我が国は、アニメ・漫画の大国になりました。
>人間関係も居場所も、あるいは仕事や生活水準の選択も、自由で多様性に満ちた都市であってほしい。
そうですね。自由な多様性というものは、ただの混とんとした状態とは違いますね。我々は、混とんとした生活から抜け出すことが難しいですね。
>ただ、都市と自然との距離という問題はどうしても残るわけですが、そこをどう解くかというところに東京とセットで考える地方論・地域論のヒントがあると思います。
地方論・地域論として考えたらよいでしょう。世界観を持てば、大きな発想になります。
>一方で日本の悪いところは、リスクテイクができないことと、こだわりや遊び心のなさ。
我々は、やんちゃ坊主にはなれませんね。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。恣意による敢行では、民の信頼が得られない。
>それが風景やモノに表れて、安全だけど楽しくないモノやルールをつくってしまうところです。
わが国には何でもあるが、ただ夢と希望だけがない。日本人には、非現実の内容が想定外になっています。空想・妄想ならできますがね。
>新国立競技場の件でも、“民主的”に無難な選択をして、ノーコンセプト・ノーメッセージになったら意味がない。
そうですね。日本人としての無哲学・能天気の象徴には意味がない。文章の理解ができないと、意味も得られません。
>何が未来において支持され、愛されるのか。>少なくともその仮説を提示すべきです。
そうですね。一人一人がそれぞれに仮設を立てて公表しましょう。
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