>>努力という言葉には、無理して頑張る、我慢して為すというイメージが一緒に含まれています。
そうですね。外国人も日本人を見ると ‘頑張って’ と言って冷やかします。
>>必要なのは、努力することではなく、没頭できる何かを見つけること。>>そして追求し続けること。(335177)
そうですね。何かに没頭できると良いですね。
>「努力する」や「頑張る」という言葉を美徳化し、「できない」言い訳を自ら与えていませんか? >努力する、頑張るという言葉に隠れた欺瞞を指摘した記事を紹介します。 >以下、頑張り過ぎるという欺瞞より(リンク) >* * * * * >さて、私はどちらか言うと、すぐに手を抜きたがるほうで、手を抜くことによって失敗し、「ああ、あのとき、もっとちゃんとしておけば良かった」という後悔を繰り返すタイプなので、その点、注意する必要があるのですが、私とは反対に、常に無理をして頑張る人がいます。
そうですね。’努力の人’ というのがいますね。
>そんな人たちは、無理をして無理をして頑張って頑張って、頑張り過ぎて、そして、体調を崩したり気力が続かなかったりして、「やっぱり私はダメなんだ」と自分を責め、罪悪感に苛まれています。
そうですね。満身創痍では、見るも無残ですね。
>一生懸命頑張った結果体調を崩したり気力が続かなかったりしただけなのに、自分を責めるのはおかしなことですが、これが、こういう人たちの失敗のパターンなのです。>つまり、無理をして頑張る人は、無理をして頑張ることによって体調を崩すなどして続かくなり、そのことで「自分はやっぱりダメなんだ」と責める口実を、自分自身に与えているのです。
そうですね。同感です。本人には、口実が必要なのですね。
>要するに、続けられないような無理な頑張りをすることによって失敗するというパターンを繰り返しているのです。
無理をしては、いけませんね。
>こういう人たちは、「自分はいくら頑張っても認めてもらえない」と思い込んでいます。>そのために、無理をして無理をして頑張り過ぎて続けられなくなり、「やっぱり自分はダメなんだ」ということを証明しようとしているのです。
ダメな証明に力を入れるのは、精神的によくないですね。何か言いつけられた義務から逃れられるのですかね。
>そもそも、人が頑張るのは、自らを成長させるためであって、周囲の人たちに自らの頑張りを認めてもらうためではありません。
そうですね。周囲の人たちへの見栄と外聞に生きていては、どうしようもないですね。
>そして、頑張るとは、そのとき自分のできることに自分のできる範囲で力を尽くすことを言うのであって、決して無理をすることではありません。>自分のできること以上に無理をしても、決して続けることはできないでしょう。
そうですね。’最善を尽くせ’ ですね。それで、おわりです。
>自分のやっていることの矛盾に気づくことができれば、今の生き辛さから抜け出すきっかけを見つけることができるのです。
そうですね。 自分の頭を使うことが大切ですね。さすれば、矛盾にも気が付いて窮地からの脱出も可能でしょう。 しかしながら日本人には意思がない。意思は文章内容になるので意味がある。だから、意思の内容に関する議論ができる。無意味なことは、やめさせることが可能である。 日本人には意思はないが恣意がある。恣意 (私意・わがまま・身勝手) は文章にならないので、意味がない。だから、議論ができない。やめさせることは、ほとんどできない。日本人は、恣意を鍛えて意地・根性・大和魂などとする。これらの思い込みは、曲げてはならない信念のようなものである。非理性の励みを極力徹底すれば、南の島に雪が降る。<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。 私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
> 以上、引用終わり
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