>日本は戦争に負けた。>負けたことで、いろいろなものが切り捨てられた。>切り捨てられたものの中に、教育の本質も含まれている。
皇民化教育も廃止されましたね。
>今の、我々の食卓のようなものだ。>食べ物の、見栄えをよくするために、料理の過程で栄養価が、高い物が、たくさん捨てられている。>その反対に、化学物質漬けの食料が並んでいる。
我々は、賢い消費者になる必要がありますね。
>大多数の日本人は、今の教育が、多くの否定によって成り立っていることに気がついていない。>現代の日本の教育は、多くのことを切り捨てて、成り立っている。>沢山のことを切り捨てていながら、何でも疑ってみよう。>これじゃあ、何も、信じるなと言っているようなものさ。
‘民信なくば、立たず’ ですね。政治を行う上で、民衆の信頼は大切ですね。(論語・顔淵)
>一体どれくらいの事が、頭から否定されたと思う。>まず、思想を否定している。>とにかく、思想的なものは、全て駄目。>思想は、全て、危険思想。>思想的な話をするだけ危険人物と見られかねない。>思想を敬して遠ざけている。
借り物の思想に専念することは良くないですね。自分自身の思想が必要ですね。個人・個人に哲学は、必要です。Everyone needs a philosophy.
>自己の否定。>わがまま言うなといって自己主張をさせない。
日本人は、意思 (will) がない。意思は未来時制の文章内容ですが、日本語文法には時制 (tense) というものがないので、我々には未来時制がない。ですから、日本人には意思がない。しかし、恣意 (self-will) はある。恣意 (私意・わがまま・身勝手) はばらばらな単語により成り立つから、意味がない。恣意に駆られて行動に出れば、’自由のはき違え’ として取り締まりの対象になる。だから、昔通り’不自由を常と思えば不足なし’ である。つまり、意思の表現ができなければ、自己主張もなしである。
>それが、人格の否定へとつながる。
そうですね。一事が万事ですね。人格の表現に支障をきたしますね。まさに窮地に陥っていますね。
>人格の否定は、個人差の否定、個人の能力の否定、個人の性格の否定へエスカレートする。
無哲学・能天気であっては、没個性は避けられませんね。
>そして、肉親、血縁の否定。>それから、道徳の否定。>道徳は、個人の問題だから、国家は介入してはならない。
政敵を強制収容所に追放する国家 (為政者) は、非民主的ですね。収容所列島は、すべて廃止すべきですね。
>冗談じゃない。>道徳は、社会的問題ですよ。
道徳は、社会に影響を及ぼす個人の問題でしょうね。独裁者は、消えてなくなるべきですね。
>マナーの否定。>躾や育児の否定。>礼節の否定。>家事の否定。>修行・修養の否定。>師の否定。>誰でも、先生になれば、尊敬されると思っている。>国家の否定。>経済の否定。>損得勘定は、下品なことだって。>政治の否定。>宗教の否定。>神の否定。>文化の否定。>歴史、伝統の否定。>風俗、習慣の否定。>盆も正月も失われつつある。>儀式やしきたりの否定。>祭りは、どうなる。>地域性の否定。>地域コミニティの否定。>家庭の否定。>家族の否定。>日常生活の否定。>必要性の否定。>実用性の否定。>究極は、教育の役割の否定。>これは、自己否定ですね。
総じて否定論主義 (negativism) ですね。これが教育のすべてでしょうか。
>生活力や生き甲斐といったもの、人としていかにありべきか、いかに生きるべきかという事を指導する事を諦め、放棄した時点で、教育は、その役割を喪失した。
‘あるべき姿’ の内容については、自分自身で考えるべきことではありませんか。それを教員が教育指導することは、きわめて危険なことではないでしょうか。思考停止と暗記力に頼るのは衆愚の道ですね。
>そのことに気がつかないことが恐ろしい。
我々は、考える人になることが必要ですね。そうでなければ、我々は烏合の衆になる。民主主義は衆愚政治に変質します。
>このように、多くの事が否定された上に現代の教育は成り立っている。
あらゆる事柄をもう一度考え直す必要があるようですね。無哲学・能天気ではいられない。
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