2018年07月27日(金) 

 

 

 

>『自然科学』って一体全体何でしょうか?  >wikipediaには >科学的手法により一般的な法則を導き出すことで自然の成り立ちやあり方を理解し、説明・記述しようとする学問の総称 >と書かれています。 >しかし、この説明、ちょっと見は当然のように見えますが、今の私には少々違和感を感じています。 >そもそもなぜ『自然科学』という学問が生まれたのでしょうか?

 

それは、人が自然を理解したいと考えたからでしょう。

 

>昔から人間が共通認識として自然現象に対して感じた不思議さを解明したいという自然の欲求から必然的に生まれた学問ではないでしょうか?

 

そうでしょうね。

 

>そして、地球生物の中で唯一『人間』のみがなしてきたものであり、得られた知見から多くの『科学技術』が生まれ、人間にとって計り知れないほどの恩恵を与えてきています。 >勿論、兵器のような人間にとってあだになってしまった技術さえも生んでしまいましたが・・・

>いずれにしろ、本来『自然科学』は『全ての自然現象の謎』を解き明かす学問のはずではなかったでしょうか?

 

そうですね。自然科学は、全ての自然現象が対象になりますね。

 

>で、そう言うと恐らく、皆さんは「そんなことは当たり前だ」と言うでしょうが、実際を見て見ましょう。 >本当に現在の自然科学はそうなっているでしょうか❔ >私がWikipediaの説明に違和感があると感じているのは、冒頭の『科学的』という言葉です。

 

事実を組み込んだ哲学 (考え) は、科学ですね。

 

>私がこのコーナーを作った目的でもあり、再三書いてきたのですが、アマチュアゆえに感じてしまっている現代科学のあり方への捨てがたき疑念からこの『科学的』という語彙に一種の反発を覚えてしまっているのです。 >現在の『科学的』という言葉は、科学アカデミズムの世界で、既に確立した真理だと学者が信じている教科書定説理論に沿うことのみを意味しているようです。

 

そんなことは、ないでしょう。個人は定説に従う必要はないでしょうね。自分で自由に考えたらよいでしょう。新説であっても構いませんね。学問の自由です。画期的な学説になるかもしれません。

 

>ですから、それとは異質のものはたとえ実際にあっても「そんな自然現象はない、嘘だ。とんでもだ。」とはなから無視またはそれを言う人へのひどい人格攻撃までなされています。>しかし、これこそ、本末転倒ではないでしょうか?

 

発見者は、通常証拠を添えて提出しますね。それで終わりですね。虚偽であるとの証拠があれば、それも提出したらよい。科学は人格攻撃とは無縁ですね。

 

>私が前述で『全ての自然現象の謎』と言いましたが、現代科学は、確立したとされている理論で説明可能と思う自然現象のみが自然現象だと勝手に決めつけ、それ以外は幻としてしまっている『ご都合主義的選択的』自然科学になり下がってしまっている気がしてなりません。

 

それは、読者の思い込みでしょうね。自然現象の範囲に際限はありませんね。

 

>そして、本来は『自然現象の謎』を解明するのが本質なのに、曖昧なところがあっても「つじつまがあっていればそれでよい」というスタンスで「できないからそれ以上そこは深入りしない、する必要性はない」というのが「あきらめればわかる」という言葉に如実に現れているのです。

 

精度の問題は、ありますね。でも、さらなる技術革新が次々と行われるでしょうね。

 

>そういう意味では、私は『自然科学』はその歴史において本来の筋からずいぶん変節してしまったという気がしています。

 

それは、どうしてでしょうか。

 

>誰でも子供のころには自然現象の不思議さを感じ、理科へのあこがれみたいなものを感じるものですが、少し大きくなると理系嫌いが多く出てくる理由はまさにここにあるのではないかと思います。>要するに、本来の『自然科学』の本質である自然現象の謎(人間の素直な「なぜだろう?」という思い)の完全解明ではなく、高等数学と思考実験やシュミレーションによるつじつまわせでのHowの追求ばかりと、そういうところからでてきたいかにもエレガントで美しい理論について間違っているはすがないと言う強い思い込みから、それに反するような実験・観測データが出て来ても、実験観測者自身がデータ不備と思い込んでしまったり、そうではなくても「そんなはずはない」として無視するか、無視できなくなると、少しの修正でいいはずとまたもや次のつじつま合わせ補正を行うだけ・・・

 

要するに、研究者たちにはまともな議論ができていないと、あなたはおっしゃるのですね。

 

>そうやって、基本的教科書定説には一片の疑いも持たず、その線上でせいぜい修正だけ追求しているのが、現在の『自然科学』と称されているものです。

 

それでは、科学は進歩しませんね。一つ一つ検証して、確認する必要がありますね。定説は覆るかもしれませんね。

 

> (中略)

>本来あるべき『自然科学』の本質に戻り、観察目撃者数の多少に係わらず『全ての自然現象』を先入観を捨てて素直な気持ちで着実な実験観測と出て来たデータを勝手な先入観で取捨選択せず素直に捉えて完全解明していくという風になって欲しいと切に願うのですが、どうやら当面は(地球では永遠かも)無理なようですね。

 

研究者は、自分の考えに合うデータだけを使って自説を作り上げたりすればよいでしょう。矛盾がなければ、それはその人の説になります。他人の説と同じになる必要はありませんね。

現実の内容は一つである。だが、非現実 (考え) の内容は、人の数だけあっても不思議ではなりません。矛盾を含まない考えは、すべて正しいと考えられます。

現実は頭の外にある。非現実 (考え) は頭の中にある。両者は所在が違うから、両者の内容も同じにはならない。

 

>こういう意見は浅学菲才のアマチュアの勝手な戯言としか思われないのでしょうね。>しかし、少なくとも日本では真理だとして義務教育で習う「進化論」を打ち立てたダーゥインは講義もしたことのないアマチュアだったそうですねぇ。

 

考える人に講義の必要はありませんね。

 

>自然科学の世界は最初は反対者があっても、一旦多数派になるやいなや完全に神聖にして犯すべからずの真理に祭り上げられてしまうようです。

 

日の下に新しきことなし。されど、人間は自己の考えを改めるから学問は限りなく進歩する。

 

>結局、真の真理というより多数決で真理が決まってしまう世界ですね。

 

自分の真理は、自分の頭の中にある。自己の世界観に多数決はない。

 

>だからこそ、いくら攻撃されても反対者が後を絶たないというのは人間故の当然のことでしょうね。

 

意味不明です。

 

>そういう自然の人間心理を勝手な偏見で「間違っているから目覚めさせないといけない」とばかり、攻撃するアカデミズムには「何様だ?」という強い反感しか感じられず、そういう目で見るとあまりにも曖昧さばかり目についてきて不信感の虜になってしまっています。

 

当事者間の議論が十分になされていないということですね。

 

> (中略)

>対象範囲が異なっていようと、同じ科学分野であり学問手法自体に相違はないはずです。

 

科学であろうとなかろうと、矛盾さえなければ、それは正しい考えですね。

 

>だからこそ、この歳になって一つ湧いた疑問からどんどんと色々な面に対して疑念が膨らんできてしまい、自分の浅学菲才のなせるわざだろうと調べても意外にも全然疑問が解消されない状況であることにわかり暗澹とした気持に落ち込んでいます。

 

全ての個人に哲学は必要ですね。Everyone needs a philosophy. ‘考える人’ になりましょう。他力本願・神頼みでは、自己の哲学は形成されません。

 

> (引用終わり) 

 

 

 

 


閲覧数411 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/07/27 14:15
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