>大学に行く必要や意味がない6つの理由 >1.大学でやることは自分で勉強できる
もちろん大学に入って指導を受けながら勉強するのは自分でしょう。 我流で努力するより専門家の指導受けた方が、時間を節約できるはずです。
(略) >2.ほとんどの学生が勉強せず、サボって遊んでばっか
大学において、成績と出欠の基準がたるんでいるのは教官の責任ですね。教官の質を向上させる必要がありますね。
(略) >3.単位を取るだけでは何の意味もない
成績と出欠の基準がたるんでいると、単位を取ることにも意味がなくなりますね。 単位の意味を持たせるのも教官の責任でしょう。
(略) >4.学歴なんか意味はなく、その人の能力が重要
学歴に意味を持たせるべきですね。学歴が個人の能力を示さないところがわが国の問題ですね。 米国では、哲学博士 (Doctor of Philosophy: Ph. D.) でなければ、一人前の研究者と認められません。また、修士号を採用後一定期間に取得できなければ、小学校の教諭も解雇されます。だから、学歴が重要です。
(略) >5.お金がかかりすぎる
大学教育は、無償化すべきですね。 しかし、4年間を大学でまるまる遊んで過ごすという習慣があっては、無償化にも有権者の理解が得られないでしょうね。
(略) >6.4年間の時間がもったいない
大学では、飛び級・早期卒業を活用すべきですね。時間の節約になります。 しかし、勉学の作業がすっぽり抜けているわが国では、早期卒業も何にもなりませんね。
(略) >まとめ >以上のような理由で、大学に行く必要性はありません。
そうですね。考えることに関係のない人は、大学に行く必要はありませんね。
>昔までは専門的な学問を学ぶ場として機能していたのに、今では進学率も上昇したためか、ただ単なる通過点となっています。
戦後、わが国は、専門学校を大学に改組したのではありませんか。これは、改悪なのかな。
>そして、自由度が高いせいか、堕落する学生も多く、自分が払ってもいないお金を無駄にする人が多いです。
それは、’自由のはき違え’ というものでしょう。意思の自由のことではなくて、恣意 (私意・わがまま・身勝手) の自由のことでしょう。日本人には、恣意があっても意思がない。恣意の自由度が多ければ、学生もそれだけ堕落しますね。不自由を常と思えば不足なし。
>ましてや「人生の夏休み」とも言われるようになり、勉強する場としては確実に機能していなくなっています。
日本人には、勉強する手段がない。つまり、自己の考えを表す文章が作れないのであります。 考えの内容は非現実であり、非現実の内容は ‘嘘’ になります。ですから、日本人は、’あるべき姿’ (things as they should be) を考えとして持つことが難しいのです。 ‘あるべき姿’ は、’今はない姿’ (things as they are not) であり、’現実離れ’ がしているので、日本人には信じることが難しい。 このようなメンタリィティ (考え方) では、学究生活に馴染むことも難しいでしょうね。
>特に理由がない、なんとなく、みんなが行くから、学歴を取りたいからという理由で大学進学を希望するならば、それはやめた方が良いです。
日本人の社会は、序列社会ですからね。序列順位にかかわることがらなら日本人は意欲を示すでしょうね。 日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。だから、’上とみるか・下とみるか’ の判断は、日本語生活には欠かせません。 日本人の礼儀は、序列作法になっています。世俗の序列を心得ていなければ、礼儀正しい日本人にはなれません。その代わり、序列関係のなきところでは、礼儀なしです。 人を見損なってはいけないという想いは、日本人の脳裏で脅迫観念の域にまで高められています。ですから、世俗の上下には、敏感にならざるを得ません。これは、実利のような・実利でないようなものです。’なんとなく’ です。
>そのお金と時間を何か別のことに使った方が、自分にも社会にも確実に役に立つでしょう。
金は有効な手段にはなりますが、目的そのものにはなりません。ですから、自分自身に社会建設の目的がないと、金の有効利用も難しいものになるでしょうね。
>もちろん、有名な大学の最先端の技術を扱っている研究所で、その分野に関する研究をしたい場合など明確な目的がある場合は、ぜひ大学へ行くべきです。
我々には、技術 (実学) のみならず、哲学 (虚学?) を学ぶことが必要ですね。各人に哲学は、必要である。Everyone needs a philosophy. 現実は、頭の外にある。その内容を見ることができる。実況放送・現状報告の内容として語ることができる。 非現実 (考え) は頭の中にある。その内容を見ることができない。ただの話であるから、その内容を理解することが必要である。日本人は文章の理解をおろそかにします。それは、忖度 (推察) の方に熱中する傾向があるからです。忖度は、自分勝手な解釈であり、議論の対象にはなりません。だから、孤立しています。’だって、本当にそう思ったのだから、しかたがないではないか’ では、済まされないのです。このことが、歌詠みには理解できない。日本人の、長所か・欠点か。 日本人の考えでは、現実の内容は ‘本当’ のこと、非現実 (考え) の内容は ‘嘘’ になる。だから、考えに基づく学問は、日本人の脳裏では成り立たない。 全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。 現実に関する内容は、日本語文になるが、非現実 (考え) に関する内容は、日本語文にならない。非現実の内容は、日本語文では ‘嘘’ になる。もっと穏やかな表現をすれば、’きれいごと’ ということになる。つまり、誰も真剣に考慮することにならない内容になる。だから、日本人は、物事を真面目に掘り下げて考えることが難しい。これは、現在の大学を見る日本人の眼付きのようなものであろうか。
>大学は勉強する場なので、そのような意識の高い人が溢れかえってることが一番理想であると思います。
そうですね。現在のわが国は、人手不足である。しかし、頭脳不足であるという話は聞いたことがない。我々日本人は、頭脳労働には向いていないのではなかろうか。天下の秀才ならいっぱいいますがね。これは、わが国の教育方針の悪い結果であるのでしょうね。 .
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