2018年08月11日(土) 

 

 

 

>「教育」と「洗脳」と言う言葉がありますが、これらはどう違うのでしょうか?

>考えたこともない人が多いかもしれませんが、教育=善、洗脳=悪みたいなイメージがどこかにあるのではないか?と思いますけど、私自身もこの違いについて考察しているブログなどを見ていると、違いは述べられているのだが、結局、それって同じにしか思えてこないという面もあります。

 

それは残念なことですね。

 

>洗脳というのは、辞書によると「その人の主義や思想を根本から改めさせること」で、教育は「ある人間を望ましい姿に変化させるために働きかけること」だそうです。>この定義を見ても違いはよく分からない。>特に疑問なのは教育の方の定義であり、「望ましい姿」とは何だろうか?

 

‘望ましい姿’ とは、’個性ある人間’ に育てることではありませんか。

 

>今日本で行われている教育も、当然この望ましい姿というのを目指しているのだろうけど、その望ましい姿に改めさせる行為は洗脳にはならないのか? >私にはちょっと分からない面が多い。

 

洗脳は、思考停止を伴いますから、思考の結果として表される個性 (望ましい姿) は期待できませんね。

 

>■日本で行われている教育は洗脳じゃないか?

>例えば『「教育」と「洗脳」の違いを教えて下さい。』のページには以下の回答が載っています。>特に「あらゆる分野の知識を蓄積させ、論理的思考能力を高め、表現力を涵養するなどして、あらゆる問題を打開してゆく能力を身につけさせることが、例えば「教育」と呼ばれるのではないでしょうか? 」という部分については、なんとなく理解できる気がする。

 

個人の思考能力を高めれば、個性的になりますね。

 

>ただ、日本で行われている教育ってこれだろうか? >そもそも教育がある種強制的に行われており、かつ学ぶ内容が選べないという意味では、結局洗脳に近いと思うのです。

 

洗脳には、思考停止と暗記力が必要ですね。

 

>日本社会は個性を発揮しづらいといわれており、教育が施すのは、大人が押し付ける価値観や思想であり、子供に別に価値観や思想を選ぶ余地はほとんどない。

 

現実は頭の外にある。その内容は、見ることができる。

非現実 (考え) は、頭の中にある。その内容は、見ることができない。ただの話である。文章内容の理解が必要である。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。

あるべき姿の内容は、非現実の内容であり、時制 (tense) を伴う文章内容になる。時制というものは英文法にはあるが、日本語文法にはない。だから、日本人は、考え (非現実) の内容を文章にすることができない。かくして、国民は無哲学・能天気の状態でいる。各人に哲学は、必要である。 Everyone needs a philosophy. そうでなければ、我々は烏合の衆になる。民主主義は、衆愚政治となる。

 

>そういう意味でいうと、洗脳の概念の方に近い気もする。

 

自分の考えを表現できない人が、暗記力による詰め込み教育に励めば、洗脳も可能ですね。

 

>あらゆる分野の知識を蓄積させ、論理的思考能力を高め、表現力を涵養するなどして、あらゆる問題を打開してゆく能力を身につけさせることが、例えば「教育」と呼ばれるのではないでしょうか?

 

そうですね。非現実の内容を文章にする言語がなければ、考えは文章内容として表現できません。ですから、個人は無哲学・能天気の状態にとどまります。

 

>同じ問題でも人によってアプローチの仕方が違うことは当たり前で、それが社会人としての個性の現れ方です。

 

そうですね。矛盾を含まない全ての文章は、正しい考えを示している。だから、正しい考えは一つではない。幾らでもある。かくして、個性が表れる。

 

>それに対して「洗脳」は、ある特定の概念を強引な方法で無理矢理植え付け、そこにおいては個性は無い、ということではないでしょうか?

 

そうですね。洗脳の技術は、思考停止と暗記力によるものですね。これを徹底すれば、筋金入りの人間になります。

もし、思考を許せば、考えの内容は個人個人で違いますから、個性の教育につながります。

 

>■ある1つの価値観や思想を植え付けるのは洗脳も教育も同じ

>例えば、道徳の授業で「犯罪はいいこと」なんてみんなの前で発表したり、文章に書いて提出したら、教師に呼び出されるでしょう。>そのまま放置はされないと思う。

 

罪の話は、子供には難しすぎますね。

 

>そして、何を言われるか?分からないが、そこでその児童や生徒の考え方を矯正しようとするはずです。>これは洗脳に近いと思うのです。

 

‘あるべき姿’ の内容を発想することは、子供には無理ですね。子供は、罪の話にはこだわらないですね。

 

>先ほど述べた教育における「望ましい姿」という中に、国家や社会にとって反逆的な存在を生み出さないというのが、1つの目的として存在するとしたら、あれはある意味望ましい姿を目指していると言え、教育と呼べないこともないかもしれない。

 

太陽王・ルイ14世は、’朕は国家なり’ と言った。現在でも、権威主義の国では、為政者とそのグループが、自分たちを国家そのものであると考えている。自分たちが危うくなることは、すなわち国家が危うくなることと考えて、政敵を国家反逆罪の名のもとに強制収容所に追放している。だから、収容所列島はなくならない。

 

>ただ、じゃあ、その児童や生徒のいう「犯罪はいいこと」という主張をどう覆せるか?が問題なのです。

 

児童・生徒には、犯罪の概念の理解は無理でしょうね。

意思のある人間には、加害者意識もある。罪の意識も体験できる。

意思は、未来時制の文章内容であり、英文法には時制というものがあるが、日本語文法には時制がない。だから、日本人にも子供にもアニマルにも意思がない。あるのは、被害者意識ばかりである。

意思のない人間には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなもので、人は死んでも彼らは殺人罪には問われない。彼らには、殺意というものがないからである。

罪の意識のない日本人・子供・アニマルに謝罪を強要することは、自虐行為を強いるようなもので成り立たない。とかく、この世は無責任。

 

>つまり、犯罪が起きた方がむしろ国家にとって、社会にとって良いこと、プラスの影響があったとしたら、どう教師は反論するのか?

 

罪の意識のない人たちは、犯罪防止に苦労しますね。罪のない犯罪が存在するからです。

 

>例えば、今の日本社会を如実に表している事実として非正規と正社員の格差がある。>そして、非正規で働いている人が、正社員との待遇の差等にいい加減我慢できなくなり、街中で暴れ出した。

 

それは、政治的解決が不可能な場合ですね。

 

>そういう事件はたまに起きるが、ほとんどの人は時間が経てば忘れてしまう。>それは何故か?滅多に起きないからです。>ただ、そういう事件が毎日どこかで起きているとしたら?その度に被害に会う人が大勢出たとしたら、これはもう国としても社会としても無視できなくなる。

 

そうですね。

 

>非正規で働いている人は、国や企業や社会にとって都合の良い働き方を強いられている面もあり、ある程度憤りが出るのはしょうがないと思うのだけど、そうした事件が連日起きて、日本全国がそうした社会不安に悩まされるとしたら、そして、その原因が非正規という非常に不安定で、待遇が劣っていて、嫉妬や憎悪を抱かせやすい、惨い働き方のせいだとしたら、国は考えるのではないですか?

 

考えるでしょうね。

 

>その結果、どうなるか?は分からない、国も武力で鎮圧するようになるかもしれないし、事件発生を防ぐために非正規社員の廃止や非正規の働き方の見直しを行うかもしれない。

 

そういうことになるでしょう。

 

(略)

 

 

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閲覧数14 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/08/11 16:55
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