2018年08月15日(水) 

 

>追悼の辞では、戦没者の皆様に感謝を述べる。>今の世で僕たちがこのように生きていけるのも戦没者の犠牲があってのことだ。>そして二度と同じ悲劇が起きないよう平和に向けてしっかりと活動していくことを決意する。>これは全くその通りで、当然何の疑問も湧かない。

 

日本人には意思がない。だから、その決意ほども知れている。政治音痴も治らない。

意思は、未来時制の文章内容であるから、文法に時制というものが必要である。

英語には時制 (tense) があるが、日本語にはない。だから、日本人には、意思がなく優柔不断・意志薄弱に見える。この困難をどう克服するか。それが問題である。

 

だが、日本人には恣意 (私意・わがまま・身勝手) がある。だから、これを利用する。意思は文章になるが、恣意はばらばらな単語のままで存在する。文章にならないものには意味がない。

意思には意味があるので、人はその決定結果に後悔しない。恣意には意味がないので、人はその結果にむなしさを感じる。

優柔不断・意志薄弱の人間を活発化させるために、恣意決定を利用して強化する。恣意を鍛えて、意地・根性・大和魂とする。これは、精神主義である。先の戦争での戦い方である。

 

意思がないので、日本人は意思疎通の代わりに恣意疎通を使う。

意思は文章内容として世界中を駆け巡るが、恣意はばらばらな単語 (片言・小言・独り言) であるために、肌と肌との触れあう程度の距離にしか広がらない。恣意疎通は、'阿吽の呼吸' などと呼ばれている。アニマルの世界における影響力のようなものか。

 

意思がないので、日本人は意思決定の代わりに恣意決定を利用する。

意思は文章内容として議会で議論の対象になるが、恣意は談合を開いて腹の探り合いになる。落としどころを見つけて、決着する。恣意には文章内容がないので、意味もない。恣意決定にはリーズン (理性・理由・適当) もない。したがって、説明責任も果たせない。とかくこの世は無責任。

 

>僕が深く考えてしまうのは、では、先の大戦である太平洋戦争がなかった方がよかったのかどうかである。

 

戦争は、無いに越したことはないでしょう。

 

>これは戦没者の皆さんや、特にご遺族の方々には大変不謹慎な物言いにもなるので、言い方を慎重にしなければならないことは十分承知している。>ゆえに政治家時代には発言しなかった。

>でも社会人になって問題意識を持ってから、ずっと自分なりに考えてきたのだが、やはりあの大戦で日本が負けたことは、戦没者の皆さんやご遺族の皆さんに大変感謝し、大変申し訳ないと思いつつも、全体として僕にとってはよかった、という結論に達している。

 

結果論が全てですね。あの戦争は、負けるためのアイディアであったのか。政治家の哲学が出てこない。戦没者に対する大変感謝の連続で、責任者のリーズンが聞かせてもらえない。

 

>実は、このような考えを戦没者追悼式の追悼の辞に入れようかとも考えたのだが、それはやはり止めた。>こう言うと、自虐史観! 弱腰! 売国奴! と猛烈な非難を浴びるだろう。>特定の思想団体からは、激烈な抗議を受けるだろう。

 

論客は、'ああでもなければ・こうでもない' と言っている。'あれではいけない・これではだめだ' と力説する。

だが、自分はどうであるかを決して言わない。自分には、考えというものがないからである。このような人が議論に参加すると、議論が不毛になる。建設的な内容が払底するからである。

何事にも、自己表現が原点である。自己表現が進歩の源になる。考える個人を大切にしよう。

 

>先の大戦で日本は勝つことができたはずだ! と主張する人から、先の大戦は避けるべきだったと主張する人まで、あの大戦で負けた方がよかったという人はいないだろう。

 

‘彼を知り己を知れば百戦危うからず’ですね。何も自ら進んで、相手に打ちひしがれた姿を見せることはないでしょう。政治家たちは、浅はかではなかったのかな。

 

>僕が自分なりに調べたところでは、どう考えても、戦前の日本社会は嫌だ。>特に軍部が歯止めなく増長してきた昭和初期から大戦突入に至るまで、もちろん戦時中の軍部のあの態度振る舞いも含めて全てにおいて、とてもじゃないが我慢できない。

 

戦前の日本社会は,恣意の社会でしたね。意思がないのであるから、今も基本的にはそうであるのかな。それにしても、今は我慢できる程度ですね。

日本人は意思はないが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。

意思は、未来時制の文章内容になるが、恣意は、ばらばらな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在する。

意思疎通はないが、恣意疎通がある。阿吽の呼吸などといわれている。非言語の精神活動である。アニマルと同じである。

意思は表明できるが、恣意は表明できない。

意思は議会にかけられて議論の対象となるが、恣意は談合を開いて腹の探り合いをする。意思は言語で透明性があるが、恣意は非言語で透明性に欠けている。

意思は世界に広がるが、恣意はどこにも広がらない。'お前らに、俺の腹の底が読めてたまるか' という。

日本人には、意思決定がなくて、恣意決定がある。

意志の強さは問題にならないが、恣意の強さは日本人の問題になる。これを精神主義という。

恣意を鍛えて、意地・根性・大和魂とする。

 

 

 

 

 

 

 

 


閲覧数315 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/08/15 16:54
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