2018年08月29日(水) 

 

 

 

>「日本語人の脳」  >今から38年前「日本人の脳」を書かれた東京医科歯科大学名誉教授角田忠信先生が新しく「日本語人の脳」(言叢社)を出された。

>(中略)

>その主張は、正確には、日本語、ポリネシア語を母語とする人は、虫の声、鳥の声、動物の鳴き声、そして人の感情音を、言語を処理する側の脳(大半は左脳)で処理をする、というものであるが、今回の「日本語人の脳」は、その後の最新機器による実験結果や研究成果をあらためて纏めたものとなっており、基本的な主張は変わっていない。>当時、友人たちに「日本人は虫の声をコトバとして聞くが、外国人は雑音としか聞かない。」と言うと、「ヘエー、成程」、「面白いね」とは言うものの、それで終わりだった。

 

虫の声は、文章ではない。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。

 

>しかし、虫の声をコトバとして聞くか、雑音としてしか聞けないかは、非常に重要なことである。

 

虫の声には意味がない。意味のない言葉として聞くか、雑音として聞くか。どちらも似たような非言語ですね。

 

>虫の声は意味を持ってはいない。>ただ、日本人はその虫の声に、秋を感じ、寂しさを感じ、あるいは、もののあわれをしみじみと感じるのである。

 

虫の声は、芸術 (音楽・絵画・彫刻など) 鑑賞と同じですね。

 

>非日本語人にとってはコトバは意味を伝えるもの。

 

そうですね。すべての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。文章には、意味・意義がある。 

 

>しかし、日本語人はコトバに意味以上のものを託し、また話されたコトバに意味以上のものを読み取ろうとする。

 

それは忖度 (推察) ですね。聞き手の勝手な解釈ですね。非言語活動に対する期待ですね。

 

>非日本語人にとっては言葉は情報でしかない。>日本語人にとっては言葉のやり取りは、情報の交換であると同時に気持のやり取りでもある。

 

そうですね。日本人は、文章の理解よりも忖度 (推察) に頭を使いますね。だから忙しい。

 

>ここから日本語人と非日本語人のものの考え方の違いが出てくる。>ものの考え方の違いは文化の違いとして表れる。

 

それは、そうですね。’東は東、西は西’ ですね。

 

>日本人と欧米人のものの考え方の違いの根本にあるものは自然に対する考え方、感じ方である。>日本人は自分も自然の一部であり自然とは繋がっていると感じているが、欧米人は自然は自分の外にあり、自然とは対決し、克服していくべきものと考えている。

 

現実は、頭の外にある。その内容は、見ればわかる。

非現実 (考え) は、頭の中にある。その内容は、見ることができない。単なる話である。その文章には、理解が必要である。

 

>欧米人は人間は他の何ものとも異なる絶対のものであると考えている(人間中心主義)。>もちろん、一神教という宗教のせいもある。>しかし、そのような宗教を採用し、そのように作り上げたのは彼等自身である。

 

そうですね。すべては人間発ですね。

 

>その考え方が自らの内部にも向かい、自らの内部の自然、すなわち情・感情を蔑視し、知・理性を至上のものと考えるようになった(主知主義)。

 

考え (非現実) は、感情 (現実) とは同じになりませんね。かれらは、理性的な人間を目指していますね。

 

>この知至上主義と人間絶対主義とが相まって、自分が絶対という個人主義を生み出した。

 

そうでしょうね。そうでなければ、人間はアニマルと同様に自然に埋没しますね。

 

>この個人絶対主義は必然的に自らの自由の宣言となり、一方、対外的には平等の要求ともなった。>本来、自由と平等は矛盾した概念である。

 

そうですか。どこがどう矛盾しているのですかね。

 

>これは、個人絶対主義がそもそも自然とは相容れない概念だからである。

 

意思がなければ、自然ですね。意思を表現しない人は、傍観者としてとどまりますね。

 

>日本人は自分も自然の一部で自然とは繋がっていると感じているが、周りの人々とも繋がっていると感じている。

 

日本人は、自然に埋没していますね。周りの人とのつながりは、主として序列感覚でしょうね。

 

>日本語には身内という言い方がある。>同じ一つの身の内にあるという感覚である。

 

自分と同じ序列に属する人は、身内の人ですね。そうでない人は、よそ者ですね。

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上とみるか・下とみるか’ の判断は、日常生活にも欠かせません。序列の上をたどってゆくと、天皇陛下に行き着きます。我々の序列は世界につながっていません。日本語の世界に限られています。

 

>そして、この繋がりを断つこと、断たれることを非常に嫌がる。

 

そうですね。日本人には、’つながり・絆’ が大切ですね。よそ者・外人・非国民と呼ばれるのが恐ろしい。

 

>日本語には英語の‘I’、‘you’に当たる言葉がない。>敢えて言えば、そのような概念がない。

 

そうですね。一人称・二人称などという概念がありませんね。我々には、パーソン (person) がない。アニマルには、パーソンがない。

 

>英語の‘I’は、自己を主張する、あるいは自己を宣言する言葉として、幼児期から教え込まれる。>‘you’は相手を自分から切り離す決め付けの言葉である。>日本人はこのような表現を自分の子供や家族には絶対に使わない。

 

文法上の違いによるものでしょうね。日本人は、’なれ合い’ を主としていますからね。

 

>日本人は知・理性を至上のものとは思っていない。

 

日本人は、リーズン (理性・理由・適当) を知りませんからね。リーズナブルな答えは、期待できませんね。

 

>情・感情も大切と思っている。

 

日本人は、情に左右される人間ですからね。浪花節調の生活をおくっていますね。

 

>むしろ、情を知よりも信頼できるものと感じている。

 

それは、他のアニマルも同じですね。民信無くんば立たず。

 

>「頭でっかち」、「理屈っぽいやつだ」、「腑に落ちない」、「胸にストンと落ちた」などはその表現である。

 

罵詈雑言ばかりですね。

 

>「なんとなく嫌な気がするから、やめとくわ。」などの表現は感覚をすら信頼しているのである。

 

‘虫の知らせ’ ですね。

 

>こんなことを言うと、欧米人はバカにするだろうが、日本人にはこれで通るのである。> (中略)>欧米では日本人的ものの考え方は理解されない。

 

それは、難しいでしょうね。すべての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではありません。

 

>虫の声を言語として聞くことが、日々の会話で‘I’と自己を主張し、‘you’と相手を突き放すこととは真逆であることには考えも及ばない。

 

虫の声は、文法なしの言語ですからね。文法の知識の必要性を理解して子供を文法学校 (grammar school) に通わせる国々とは違いますね。

 

>個人主義が絶対であると今も思っている。

 

個人主義は大切ですね。我々は、個人的な考え (非現実) を大切にすべきです。何もかも個人が発信源となります。

 

>男と女は絶対的に平等でなければならないと信じている。

 

それは、哲学 (非現実) の内容です。現実の描写ではありません。日本語は、現実描写のための言語ですからね。非現実は描けない。それを描こうとすれば、幻想・妄想となる。

 

>科学的にありえないことであっても、である。

 

哲学は、科学哲学ばかりではありませんからね。

 

>角田理論が世界で正当に評価されるようになるには、まだまだ時間がかかるだろう。>世界が自然との繋がりを取り戻す、すなわち日本的ものの考え方を理解してもらうには、日本語を世界に広めるのも一つの方法だろう。

 

言語の習得には、音読が効果的であることが知られていますね。日本語の音読を易しくするために、現行の仮名漢字表記を廃してローマ字表記にすると良いですね。この表記の変更により、非漢字圏を含めた世界の人々にも日本語は普及することでしょう。さすれば、日本語は世界の第二言語になる可能性も出てきます。

 

 

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閲覧数32 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/08/29 11:59
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