2018年12月05日(水) 

 

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>■天皇制の顕教と密教

>維新の「志士」たちは天皇を「玉ギョク」などと呼び、自分たちの権威付けのための単なる道具と見なしていた。>そこには天皇という存在に対する真摯な崇敬も、天皇その人への人格的敬愛もなかった。

 

志士たちにとっては、天皇は現人神ではなかったのですね。

 

>井上清 『人民史観から見た維新、天皇制』 梓書店 1990年 P.117

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>(略)なお、木戸孝允があの慶応三年の大政奉還から王政復古のころにかけて書いた手紙を見てみると、天皇のことを、かれらのあいだでは「玉」(タマ、ギョク)といっている。>「玉を奪う」とか、「以前は玉を幕府側に奪われたためにクーデターに失敗したけれども今度こそはわが方で“玉”を握って離さないようにしなければならない」などという。

 

ボールを奪うラグビーの試合のようなものですね。

 

>倒幕派にとっては、天皇は、自分たちの立場を合法化するための一つのシンボルにすぎなかった。

 

天皇は、建前 (口実・言い訳) の材料ですね。

 

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>一方で彼らは、被支配層である人民大衆に対しては、徹底的に神格化された天皇像を刷り込んだ。>人民告諭や教育勅語、明治憲法などがその典型である。

 

日本人の序列メンタリティを利用したのですね。

 

>つまり、人民大衆向けの表向きの天皇像と、明治政府を作った支配層が本音として抱いている天皇像という、二つのまったく異なる天皇のイメージがあったわけだ。

 

表向きは建前 (口実・言い訳) であり、本音は恣意であり、恣意は ‘私意・我儘・身勝手’ ですね。無哲学・能天気の世界では、そのようにしかならないのでしょうね。

 

>この二つの天皇像の使い分けを、久野収はそれが天皇制というシステムの「顕教」と「密教」だったと指摘している。

 

顕教は建て前、密教は本音ですね。

 

> 久野収・鶴見俊輔 『現代日本の思想』 岩波新書 1956年 P.131

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>注目すべきは、天皇の権威と権力が、「顕教」と「密教」、通俗的と高等的の二様に解釈され、この二様の解釈の微妙な運営的調和の上に、伊藤(注:伊藤博文)の作った明治日本の国家がなりたっていたことである。

 

顕教は建て前 (口実・言い訳) であり通俗的ですか。密教は本音 (恣意) で高等的ですね。

 

>顕教とは、天皇を無限の権威と権力を持つ絶対君主とみる解釈のシステム、密教とは、天皇の権威と権力を憲法その他によって限界づけられた制限君主とみる解釈のシステムである。

 

顕教は建て前であり通俗的で民に分かりやすい。密教は本音で高等的で官僚に利用しやすい。

 

>はっきりいえば、国民全体には、天皇を絶対君主として信奉させ、この国民のエネルギーを国政に動員した上で、国政を運用する秘訣としては、立憲君主説、すなわち天皇国家最高機関説を採用するという仕方である。

 

要するに、信奉と運用の二重構造ということか。

 

>天皇は、国民にたいする「たてまえ」では、あくまで絶対君主、支配層間の「申しあわせ」としては、立憲君主、すなわち国政の最高機関であった。

 

建前では絶対君主。申し合わせでは立憲君主。責任問題で、二重基準 (double standard) の馬脚を露わすのか。日本人のお粗末。

 

>小・中学および軍隊では、「たてまえ」としての天皇が徹底的に教えこまれ、大学および高等文官試験にいたって、「申しあわせ」としての天皇がはじめて明らかにされ、「たてまえ」で教育された国民大衆が、「申しあわせ」に熟達した帝国大学卒業生たる官僚に指導されるシステムがあみ出された。

 

建前と本音は、日本人の得意芸ですね。勧進帳の昔からありましたね。

日本人に或るのは現実ばかりである。

非現実 (あるべき姿) の内容は脳裏にあって、これは日本人には備わっていない。だから、政治の世界においても浪花節が起こる。

 

意思 (will) は、未来時制の文章内容である。

日本語文法には時制 (tense) というものがないので、日本語脳には未来時制がない。それで、日本人には意思がない。

意思のあるところに、方法 (仕方) がある。意思のない人は仕方がないので、無為無策でいる。座して死を待つのか。これではいけないということで、精神修養の必要性を認められている。動作を機敏にするために、武道の稽古に励ませる。これにより動作は機敏になるが、知的な人間にはならない。それでも、精神主義と呼ばれている。

 

動作が機敏と言うだけでは、戦争には勝てない。知的な作業が必要になる。責任は、意思により実現される。日本人には意思がないので、説明責任はとれない。だから、責任の所在もはっきりとせずに戦争責任もうやむやになる。意思は文章内容になるから、意味もあり矛盾もあれば指摘できる。恣意は、ばらばらな単語 (小言・片言・独り言) のまま散在して、文章にならないから、意味も無ければ矛盾も指摘できない。意思疎通の代わりにね恣意疎通 (阿吽の呼吸) で行くから、議論にならない。とかくこの世は無責任。

 

日本人は、日本語と英語を学び、時制ある文章の制作に習熟しなくてはならない。さすれば、日本人は責任を持てる人間になれる。建前と本音の世界 (現実の世界) から抜け出して、世界の人々から信頼される人間になれる。

 

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閲覧数575 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/12/05 16:14
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