2018年12月12日(水) 

 

>異文化の人間を理解するとき、よく自文化の考え方を押し付けるのではなく、相手の文化をまずは認めよう、というスタンスがとられることがあります。

 

ありますね。文化の多様性を認めることですね。

 

>しかしこれは、自文化の正しさを押し付けようとする、絶対主義に対抗するための相対主義に過ぎないように思います。

 

現実の内容は、ただ一つであります。

だがしかし、非現実 (考え) の内容は、無数にあります。矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示しています。ですから、あえて自文化の正しさを他民族に押し付ける必要はないでしょう。

 

>世の中には、絶対的に正しいといえるような、普遍的なものは存在しないのだから、それぞれの文化の価値を認めましょうということなのでしょうか。

 

そうですね。日の下に新しきものなし。されど、人は自己の考えを改めることができる。だから、学問は限りなく進歩する。

 

>私も、以前はそういう相対主義的なスタンスがいいと思っていました。>しかし、よくよく考えてみると、そういう相対主義的なスタンスではまったく相手を理解することもできないし、受け入れることもできないのではと思うようになってきました。

 

相手を理解していないことを前提としての相対主義のことですね。それは、受け入れられないでしょうね。

 

>それは、相対主義とは、「人はそれぞれ」「自分は自分」「相手は相手」ということになってしまうからです。

 

それは、相互理解以前の相対主義のことですね。相互理解は必要ですね。没交渉の態度では、相手の文化を認めたことになりませんね。

 

>何か、様々な価値観の渦巻く世の中で、「対立を起こさないようにうまく生きていきましょう」という処世術の一つ、そんな気がします。

 

それは、無理解を前提としているからでしょう。様々な価値観の渦巻く世の中で、無理解に起因する対立は避けなくてはなりませんね。相互理解が大切ですね。理解への努力は、文化人類学の道に通じていますね。

 

 

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閲覧数448 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2018/12/12 22:22
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