>なぜ、国語が重要なのか。その本当の理由 >日本が明治時代から近代国家の仲間入りを果たした背景にあった、国民の高い国語力。
高い識字率のことですか。それとも、忖度 (推察) のことですか。忖度は、聞き手の勝手な解釈でありますから、話し手には何の責任もありませんね。ですから、議論になりません。
>その根幹をなす国語教育が、いま危機的状況にあると警鐘を鳴らすのが、齋藤孝さんです。
確かに、日本語には深刻な問題がありますね。
>国語が人生の基礎をつくると語る齋藤さん。>本日は国語の重要性に関するお話を紹介します。>特集「国家百年の計」 齋藤 孝(明治大学教授) >国語の重要な点は精神の涵養に関わっていることです。
日本人の精神活動は、文字・言説をもって表現できるものではありません。心から心へ伝えられるものです。ですから、日本人は、言葉をおろそかにします。そして、つかみどころのない人間になっています。
>江戸時代の寺子屋は素読によって人間性を高めるという側面が非常に大きかったのですが、国語という教科もまた、ものの考え方や人格の成熟を担います。
そうですね。音読が言語の習得に非常に効果的であることが知られていますね。ところがわが国では、漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、肝心の音読の成果が出るのが遅れています。特に、非漢字圏からきた外国人の初学者には、仮名漢字表記は絶望的です。日本語をローマ字表記にすれば、たちどころに外国人にも音読が可能になります。日本語のローマ字表記がわが国の国語教育の第一歩と考えられます。日本語が世界の第二言語になる道も開けます。
>単純な言葉のトレーニングではなく、文学を趣味として読むのでもない。
国際的な意思疎通が必要ですね。会話を上達させるには、単純な言葉のトレーニングが必要ですね。そのためには、日本語のローマ字表記が非常に有効と考えられます。
>人間性と言葉をセットにして成長させていくことを促してきたのです。
現実は、頭の外にある。その内容は、見ることができる。見ればわかる。 非現実 (考え) は、頭の中にある。その内容は、見ることができない。ただの話である。話がわかる為には、文章の理解が必要です。 日本人の判断では、見ることができる内容は、’本当’ のことである。見ることのできない内容は、’嘘’ である。誰も、’見て来たような嘘’ をつく人間にはなりたくない。だから、自分自身の非現実の内容を語らない。これが、我々の思考停止の状態であります。結果的に、全ての日本人が受け売りの専門家になっています。これは、非常に危険な状態です。 イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。 評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)
>国語のテキストに採録されるような文章は非常に深みのある多義的な内容を含んだものが多いので、議論していくとより深さが増していきます。
日本語の内容が浅薄であるのは、現実のみを表現するからであります。 非現実 (考え) の内容を表現できれば、もっと思慮深い文章になるでしょう。 非現実の内容を文章にするには、文法に時制 (tense) というものが必要です。時制は、英文法にあって、日本語文法にはない。 時制のある文章は、独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。 日本人には、夢と希望がない。それは、夢と希望は、未来時制の文章内容として表現されるものだからであります。 我々日本人は、日本語と英語を共によく学び、時制の重要性を十分に理解して、自己の考えを表現できるように努力しましょう。
>それゆえ知的な対話を喚起する素材になるのです。
文章が無ければ、意味も無い。バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままでは、議論・対話はできません。 矛盾を含まない全ての文章は、正しい考えを示しています。ですから、正解は一つではない。人さまざまです。 矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えになります。ですから、対話・議論は役に立ちます。
>国語は人間性の成長とは無関係であり、日本語という言語を教えればいいのだと考える方もおられますが、教科書が人間の精神性と切り離して言葉だけを教えるドリルのようなものであるとしたら、あまりにも物足りないと言わざるを得ません。
言葉は人のものですね。自己実現の手段として各人で自由に表現しましょう。
>むしろ人間性を養うという重要な役割を担ってきたと考えるからこそ、国語が重要なのだと言えると思うのです。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。 「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
>人間性を養うという点では道徳という教科もあります。>しかし、道徳は国語ほど時間数が多くないし、教える内容もあまりはっきりとしていません。>道徳に限定して人間性を養うというのも狭い感じがします。
そうですね。スポーツのルールを教え込むように人間に道徳の徳目を教え込むというのは見逃しえない事実ですね。自分自身で道徳が考えられない民族の証拠のようなものです。
>その点、国語はいろいろな文章からいろいろな意味を受け取ることができます。
‘伝達される情報は言葉の中で全て提示される’ という行き方が必要でしょうね。 正確性が必要とされる言語をつかう練習が必要ですね。忖度の世界よさようなら。
>クラス全員で話し合って意味を見出していくという作業を行えば、対話もでき、思考の深化も期待できます。
‘言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する’ ‘重要な情報でも言葉に表現されないことがある’ といった曖昧な言語を使っていては、対話も議論もできませんね。日本語と英語の猛勉強が必要ですね。
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