2019年03月16日(土) 

 

 

>「日本辺境論」(内田樹氏)を読んで、日本における官僚の弊害、学校教育エリートの問題点について、なるほどと思える視点がありました。 >著書の中で氏は、辺境にある(中華にたいする辺境)日本において学びの効率というテーマで書かれている部分があります。 >氏は、この点をプラスにもマイナスにも評価せず、いわゆる日本人の特徴として淡々と書かれていますが、非常に面白いです。(詳細は購読を勧めます) 

 

興味がありますね。

 

>誤読でないことを願いつつ簡単に書くと、

>・辺境人である日本人は、世界のルール(常識)は自分達とは無縁な外の世界にあることを前提にしている。

 

世界の常識は、日本の非常識ですか。わが国は、孤高の国ですか。

 

>よって、自らが世界の手本となろうという発想がない。

 

自己に発想法がない。だから、日本人は、指導性を発揮できませんね。

 

>・辺境人である日本人は、自分達が何者であるかを、他国(古くは中国)との対比でしか考えたことがない。

 

他人・他国が気になる所ですね。人のふり見て、我がふり直せ。日本人は、自己の基準を持っていないので、他国・他人が気になります。子供のようなものです。

 

>よって、日本人とは何者か?という言葉化された共通認識がない。 >(なんとなくは在るが、観念化されてはいないので、日本人同士にしかわからない)

 

‘いかにも、、、、らしい’ と言うことか。気分・雰囲気の問題ですね。文章内容にならないので、意味・意義がない。日本人同士にしかわからない。

 

>・辺境人である日本人は、学びに対してオープンなスタンスである。 >つまり、受け入れ体質で吸収が早い。(上記2点の裏返しでもある) 

 

今も昔も、地理的にも、言語的にも、わが国は辺境にあり世界から隔絶しています。

 

>こんな体質の日本人が、先進国であった欧米に学ぼうと考え、彼らの思想や制度などを取り入れたらどうなったか?と考えると辻褄が合うように思います。 >オープンスタンスで学び、あっという間に欧米の制度、技術を取り入れて、第1次大戦の頃には5大国の一員になってしまいました。

 

実学 (技術) の消化は良かった。

 

>しかし、(他者の)借り物の思想・制度=答えのある勉強エリート達は、借り物思想でしか考えられないため、日本がどうあるべきかに答えを出せず、借り物の思想に立脚した理想を求めて暴走し、第2次大戦に敗退しました。

 

現実の内容は習得できるが、非現実の内容 (哲学) には、歯が立たない。 日本語の文法では、非現実の内容を文章にすることができないからです。

 

>日本人とは何者か?ということの答えは、借り物の思想では導き出せない。

 

そうですね。無哲学・能天気では、考えは出て来ませんね。

 

>その答えがない以上日本はどうあるべきか?の答えもないのは当然ではないかと思います。

 

そうですね。’あるべき姿’ (things as they should be) は、出ませんね。 無哲学・能天気の悲哀というのかな。

 

>また、当時の軍部中枢の軍人の多くは、「私個人としては戦争には反対だった」という言葉を残し、誰が戦争の決断を下したのか非常にあいまいな状況だったようです。

 

意思のある人には、責任がある。意思のない人には、責任がない。日本人には、意思がない。だから、この国がこっくり返った時にも責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。

意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は存在せず、日本人は意思を表明することが無い。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思のない日本人には、方法がない。仕方が無いので、日本人は無為無策でいる。 優柔不断・意志薄弱に見える。

 

>ここは想像ではありますが、政策を扱う会議の場などでは、他国の帝国主義≒借り物の思想を常識とし、その常識に照らした結論は、開戦という判断にしかならなったのではないでしょうか?

 

‘人のふり見て、我がふり直せ’ と言うことですね。 何事も、真似が根拠となっている。

 

>それもそのような空気を作り出す発言のみが蔓延していたのだろうと想像します。

 

理屈がないのであるから、気分・雰囲気に左右されますね。ブレーキがかからない。坂道から転げ落ちます。

山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。

「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

 

>だからなんとなく開戦したような気がします。

 

なんとなく開戦し、なんとなく敗戦したのでしょうね。ああ、むなしい。

 

>そして、エリートであるが故に、大衆の現実に目が行かなかったことが、早期の敗戦の決断も遅らせたのではないかと思います。

 

日本人は、優柔不断・意志薄弱に見える。責任の所在を示すことができない。意思のない人達は、無為無策でいる。

 

>そして、現在の日本の状況は、上記の軍人=エリート官僚とすると、同様の様相を示しています。

 

そうですね。意思のない人々は、恣意 (私意・我儘・身勝手) を使っている。上位の者の恣意の内容を上意下達で実行する。意思が存在しないので、説明責任が取れない。忖度・推察は、聞き手の勝手な解釈であるから、発言者に責任は無い。だから、議論にもならない。

 

>彼らは、市場拡大という戦争当時と全く変わらない思想から抜け出すことなく、大衆の現実にも目を向けることなく、そして、何の答えも見つけ出すことなく、無策、改悪を繰り返しています。 >借り物の思想を信奉しているため、アメリカの言いなりで、尻尾を振っているようにしか見えません。

 

借り物の思想では、考えを改めることはできません。ポチは忠犬、たぶん日本犬でしたかね。

 

>しかし、このエリートによる官僚制の問題から、日本人の可能性も見えてきます。

 

それは、助かりますね。

 

>内田樹氏の視点でとらえると、辺境人という日本人の「学ぶ」ことのスタンスは大きな可能性です。 >そして、欧米の思想が「借り物」の域を出ないのは、日本人のもつ本源性と相容れないからではないかと思うのです。

 

そうですね。言語は、伝えるためのものであり、考えるためのものでもあります。私たちの使用している言語・日本語は、印欧語とは違いますね。

 

>きっと日本人は、その本源性の残存度合いから、己が何者かという問いは不要だった。

 

そうですね。’我々はどこから来たか’、’我々は何者であるか’、’我々はどこに行くのか’ の各命題は、時制なしには考えられませんね。そして、日本語文法には時制というものがない。だから、日本人には哲学 (非現実) が無縁であります。

 

>当然その答えも不要であったため、そうした問いと答えは、輸入物で十分だったのだと思います。

 

欧米の思想も、インドの哲学も、日本人の脳裏でさらなる発展を見ることはなかった。

 

>そして、そうした問いと答えを必要としたのも支配階級だけだったのだと思います。

 

そうですね。支配階級は、舶来物を自己の権威付けに利用していました。

 

>しかし現在、私権観念≒欧米思想が役に立たないどころか、様々な弊害をもたらすにいたって、今まで考えることを棚上げにしてきた日本人も、その必要性に迫られているのではないでしょうか?

 

日本語を使って欧米の思想を語れば、意味の過不足が生じます。それが、怪我の元になります。

 

>その方法として、日本人には感覚としてわかる(潜在思念で感じる)本源性について、言語化してゆくことは、日本人とは?の答えであり、様々な社会問題に対する日本人の答えに繋がるのではないかと思います。 

 

そうですね。日本人の精神活動は、文字・言説を以て伝えることができず、心から心へ伝えるものであります。この点が、我々の今後の研究課題でしょうね。

 

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閲覧数17 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/03/16 13:10
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