>日本企業が革新されない理由 >数日前、日本の超の付く名門企業が、自分たちの経営について語っているのを読んだ。>改革への要請に対する企業側の見解である。
名門企業は、改革要請に対する抵抗勢力ですか。
>その時に思ったのは、「さすが東大卒が固める企業や」と。>要請や批判に対して、自分たちの対応とその正当性をそつなく述べる。>秀才である。>日本企業が1990年頃を境に、世界的な地位を低下させているのは、この東大卒の秀才のせいではないのだろうか。
そうかもしれませんね。
>もちろん、東大卒を責めるつもりはなく、秀才の代表として東大を引き合いに出しただけにすぎない。>要するに秀才は要領がいい。>弁が立つ。
‘ああいえば、こういう’ と言うことですね。要するに哲学がない。無哲学・能天気の国民の代表である。つかみどころのない人は、信頼されませんね。 ‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
>過去にあった事例を頭に詰め込み、それを上手に引き合いに出す。
要するに暗記力で問題を処理するのですね。
>日本の高度成長期を支えたのも、この秀才である。
高度成長期は、没個性でやって行けたのでしょうね。
>日本の官僚組織が東大卒で固められていたのは周知の事実であり、その官僚が欧米の事例、つまり過去の経験を手本に、日本経済の羅針盤の役を果たした。>その秀才だが、残念ながら過去に事例のない未来を語れない。
日本人に未来を語らせることは難しいですね。日本語の文法には、時制 (tense) というものがない。だから、未来の内容を文章にして語ることはできない。ということは、未来の内容は思考停止になっている。 全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。未来時制の文章内容は日本語の文章にないから、未来の内容は日本人の考えになっていない。想定外になっている。
>育ってきた環境とはまったく違う場所において、拠り所を失うのである。
そうですね。未来の内容は、どう考えたらよいのかわかりませんね。
>日本の超の付く名門企業も同じだろう。>その企業では東大卒が羽振りを利かせている。
その特徴は、序列の絆と没個性でしょうね。これは、江戸時代と同じですね。
>彼らが拠り所にするのは、やはり過去である。
有職 (物知り) の存在ですね。
>つまり、既得権益であり、規制である。
既得権益は、序列順位に従って配分されているのでしょう。これが、掟となっている。
>これらを要領良く守り、時代の要請に応じて少しずつ改変しながら生きている。
安定した手法ですね。お変わりのないことが何よりのことです。何しろ、一寸先は闇ですから。
>官僚組織もまた東大卒中心であるので、そことの連絡網も名門企業にとって有利に働いている。
恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) ですね。恣意 (私意・我儘・身勝手) を撲滅しないといけませんね。
>言い換えれば、秀才がやれることは過去の事例の踏襲であり、既得権益や規制を長生きさせ、そこからできるだけ多くの利益を長く獲得することである。
暗記力の活用ですね。
>たとえば、何故、日本企業がiPhoneに行き着かなかったのか。>ペン先に時計まで組み込んだ日本企業が、計算機に電話を組み込もうと考えるのは当然の流れだったはずなのに。
そうですね。でも、世の中には、番狂わせというものもありますからね。
>多分、電話回線が独占されていた社会環境のせいだろう。>通信機器を作っていた企業の主要取引先がNTTだったため、それに遠慮したのだろうか。>試作しようとしてNTTに持ち込んだが、やんわりと断られたのだろうか。
想像をたくましくすれば、話は果てしがないようですね。’それでどうした’ の問いには、答えが出ないでしょう。
>考えてみればNTTも東大卒の組織である。>秀才は無から有を生み出さない。
そうですね。創造力の展開は、暗記力では無理ですね。
>無から有を生み出すのは、天才か異常者かどちらかである。>天才も異常者も同根なのだが。>そこまで極端でないとしても、既存のものからの延長線上に革新はない。
その通りですね。反覆慣用には革新の期待がもてませんね。
>日本の企業を観察し、どこが伸びるのかを推察する上で、マイナスのスクリーニング方法として、東大卒が役員の何割を占めているのかを数えるのがいいかもしれない。
全ての罪を東大卒に着せようとしているみたいですね。これでは、真の原因は捕まらないでしょうね。
>それが多ければ、革新度が小さい。
それは、そうですね。でも、それは現象であって、真の原因ではないでしょうね。
>その代わりに安定度が高いかもしれないが。
序列人間の絆による安定度ですね。安定しながら沈むのでしょうね。
>学生が就職先を選ぶ場合も、この視点が参考になりえる。
それは、処世術の観点ですね。何事もお変わりなしで、歴史は繰り返すのですね。 非現実の内容を現実の世界で実現すれば、それは人間だけが持つ創造力を発揮したことになります。ですから、非現実の内容を発想することが我々日本人にとって大切だと思いますね。 非現実の文章内容を作るのには、文法に時制 (tense) というものが必要ですね。日本語の文法には時制がない。だから、我々には、非現実の内容は想定外になっています。いくら秀才でも、これには歯が立たない。この辺に問題の根幹があるように思います。 英語には時制がありますから、我々日本人は日本語と英語を両方を学んで、非現実 (考え) の内容を表明する能力を得ると良いですね。さすれば、自分自身の考えを自由に語ることができるはずです。自分自身の考えにもっと自信を持てば、処世術を駆使して就職先を選ぶ必要もなくなるでしょう。
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